若い社員から質問を受けた。

「今の自分が判らないのに成りたい自分なんて考えることが出来ない。」

今の自分とは、どんな人間なのだろうかと考えている自分である。

私は正義感があり、優しくて思いやりもあり、人の意見に耳を傾け、相手にとってなくてはならない友であり、私の存在は世の中を良くしていくだろう。
とにかく私は正しい人間なのだ・・・
と、私の良い面を列挙してみるとよい。

次に私の悪いところだ。

もしかしたら、私は意地悪かもしれない。とにかく人に優しくなれないのだ。
機嫌の悪いときは不親切だ。時に不親切かもしれない。
私は極端にけちだ。人に借りたお金は返したくない。
人の成功がうれしくない。嫉妬心が強すぎる。
不幸な人を見ると安心する。感謝の気持ちを持ったこともない。
考えてみれば友人と話をするとき、いつも自分が話していて、人の話を聴いていないかもしれない。
人は私の事を可愛らしいと言っているが反対なのではないか・・・

人はこの様に自分の良い面と悪い面を認めている。認めていないとしたらその人は未だ幼児で5才以下の精神年齢と考えなければならない。
しかしながら、この「自分は絶対正しく、悪い面などあり得ない。もしそう他人が思うとしたらそう思う人が悪いので、自分は悪くない。」こんな人が多いことも事実である。
何人かの人の上に立って仕事する地位の高い人の中にも、このような方が結構いるものである。

そこで、自分とはどんな人間なのか、主観でなく、客観的に考えてみる。
しかし自分で自分を客観的にみることなど、到底難しい。

そこで人間は一人で生きているわけでないので、自分の周りの人達から自分を判定してもらう、批評してもらうことが重要となる。人の意見は一人でなく複数の方がよい。自分の良い点は別にして、悪いところを正直に言ってくれる人はいるだろうか。
これも捜すのは難しい。人はリスクを冒してまで真剣に自分の事を、まして欠点など言ってくれるわけはない。
そこで初めて、自分は何者であるか判断する道を失うことになる。

自分を信じて思った通りやる。猛烈に努力する。それは何人も敬意を表してくれる。仕事も成功する。

とにかくまっしぐらに何事もやる。しかし大失敗もする。
この失敗は他人が悪いのか、自分の中に問題があったのか。
他人のせいにする人は何も学ばないが、もしかしたらこれは自分にその責任があったのではと、考えれる人は成功への道を歩むことも出来る上に、他人の忠言を聴く耳が発達する。自分の欠点を言われて、楽しい人はいない。
しかし、大きな失敗を重ねた人はそれを聴く度量が大きくなる。
初めて、主観的にも客観的にも自分の姿が観えてくる。
自分の周りで起きること、取り巻く世界は、全て自分が創り出していることを悟るからだ。

自分が何者か知りたければ、他人の力を借りるしかない。
しかし、他人は力を貸してくれない。自分が与えなければ報いはない。
他人との付合は真剣さが要求される。
この人には忠告したほうが良い。欠点を教えてあげたほうが良い。

そうすれば、大きな反発を買う。大きなリスクを負うのだ。何事もしなければリスクはないし、誰にも喜ばれないことなどやらない方が良い。誰しもこう考えるかもしれないが、あえて挑戦することだ。虎穴に入らずんば虎児を得ず(リスクを冒さなければ何も得ることはできない)

リスクを冒しチャレンジしなければ、本当の友人も生まれないし、自分も成長しない。
人の欠点を言う時、初めて自分はどうなのだろうかと思う。
この人はこの点が悪く、問題があるのだと思ったら、腹に収めないで言葉にすることだ。思いもよらない反撃をくらい、友を失うこともある。
しかしここで去る者は友としての価値もないのだ。

成りたい自分の原点は、次の様に考えてみることは出来ないだろうか。
人間は一人で生きていない。社会、集団の中で生きている。
自分が世に存在することが、他の人達に取って有益であることが、その人の存在が意義あるものとして、他人から認められる。
仕事上でも、友人関係、親子関係でも基本である。
私が居るからお前たちが居るのではなくて、他人から認められて初めて自分が居るのだ。
自分の存在は他人が決めてくれる。

勉強が一番で、運動能力も一番で、美人、美男子で、仕事も誰にも負けない。
だから、私はいつもOK。価値ある人間であるとしても、他人からは嫌味なやつ。
鼻持ちならなくて、思いやりもない、自分以外は虫けらだと思っているやつとすれば、誰からも評価されないだろう。
狭いスポーツの世界や学問の世界では、No.1の特殊能力は他人からは大いに評価されるだろうが、一般人として社会に出た時に、その人が自分の栄光をいつまでも口にすれば、評価されることはない。狭い世界でも一流人の多くは、一般社会でも一流の確率は高いが、総べての人に当てはまるわけではない。
人はどんな苦しみも悩みも死んでしまえば何も無くなる、解放される。
自殺する人が絶えない。

しかし、考えてみよう。
与えられた生命。
自分の意志で生まれてきたわけではないが、自殺しなくてもいつの日か生命は終了する。考えれば胸が張り裂ける様な恐怖ではないか。

それでも人々はその事を知りながらこつこつと努力を重ねる。
だから人間はすごい動物なのだ。
人間としての度量を大きくすること(人を許す力)にはげみ、自分の存在が、人々から感謝されるような自分、駄目だと思った自分が、こんなに努力しているのだと、自分を誉める。お前よくやったな、と・・・

勇気も体力も知力もない自分が、それでも今日は勇気を出して体力知力の限りやった。
その努力、一生懸命さが人々に感動を与える。

自分だけの為でなく、友人、知人、自分の周りの人達の為にこんな自分でもよくやったと自分を誉める日々を続けることが出来れば、自分には嘘はつけないのだから、やがて成りたい自分の実像が見えてくるのだ。
自分ともう一人の自分が和解する、握手するとき、自己矛盾から解放される。
自分の成りたい自分に近づく瞬間でもある。