私は、長いサラリーマン生活で組織の壁に何度ぶち当たり、それを超えて仕事が出来ないという痛い経験を重ねたものでした。
『組織さえなければ!』と、何度思ったことか。
あの上役がいるために、私の意思がTOPに届かない。

組織って一体何なのだろうか?何のために作られたのだろうか?
課長って何のために、誰のために居るのか?長く疑問に思ったものでした。

高度情報化社会が到来している。グーグルの検索で数億にもなる知識の収集を一瞬の内に出来る時代である。
自社の情報伝達は、これに負けないスピードで成されているだろうか?

組織は、情報を円滑に伝える方法の一つであるから、こんな時代になると、組織はなるべく平らな方が良いのではないか。情報は言葉だけではないのだから、働く人の息使いが聞こえる仕切りのない部屋が一番良いのかもしれない。

情報は、変化を伝えるものであるから、必ずしも言葉やレポートで伝えるだけではない。
変化は感知したり、知覚するもので、五感を通してなされる、人間には第六感も動員される。そして、その対応を行動に移さなければ意味がない。
従って、これらの知覚は集団全体に共有されるものでなければならない。
共有されれば、集団固有の財産であり固有の知恵となる。
組織集団は、変化を利用してイノベーション(変革進化)する。
変化は、座っていては感じることは出来ない。誰も教えてくれない。まして、レポート等では手遅れである。
欲望の変化は、対応するビジネスの場合、TOPが知覚しなければ、集団全体の行動指針は発令されない。

私が自分で会社を創った時、(といっても夫婦二人でしたが)やがて会社が大きくなっても、この苦い経験から絶対に組織は作らない。組織の無い会社にしたい。
いつも何かの目的の為に、全員でそれに向かってやっているタスクフォース型、又はプロジェクト型でやりたい考えを貫いてきた。

勉強すると、組織論には、集団が生きるために、必要不可欠な情報を共有する為に最も情報伝達を効率よく有効にするために、作りあげられるべきものであった。蟻の情報交換が参考にされたこともあった。軍隊の様に、双方の戦いは、この情報共有力に勝利の結果が帰したことによって、証明されたように思える。

集団が生き延びるために猿の集団はどうしているだろうか?
攻撃から集団を守るためには、群の中で一番遠目の利く者がその役に就き、高い樹に登り、危険を知らせる。
鼻の良い者は、食べ物や水の在り場所を安易に発見するだろう。
耳の良い者は、目の利かなくなった夜間の敵撃を察知する。
腕力の強いものは、子供を守り敵と戦うであろう。

この様にして、自然に組織だった行動がとられた集団が生き延びることになる。
組織は必要とされる部署に必要とされる能力のある者が、その任を遂行する。

自然の流れとしては、そうなるべきであるが、人間の社会ではこのような当り前と思える自然な組織が作れない。

私が学校を卒業して、就職試験に臨む目標とする会社の組織図を観た時、その立派な組織図。その頂点に君臨する社長様を支える、ひな壇の様な構成。ときには、その図を逆さまにして、TOPが一番下だから、TOPは皆様の下部(僕)の如く表現したりする壮大な組織図を見て、関心し、畏れ、尊敬してしまったりもしたものであった。

多段階ある組織図の会社こそが立派な会社だと思ってしまう。
それぞれのひな壇の頂点に立つ人の誇らしい表情が目に浮かぶ。

こんな巨大な組織の情報の流れは、どうなっているのだろう?
上位下達(上からの指令)
下位上達(下から上に上げる情報報告)
これが、有効でなければ組織体(集団)は生存能力を失う。

大企業病は、当り前のことが機能しなかったり、危険を予知して情報を発してもその情報の重大性を見逃してしまう。何が必要な情報であるか、誰も気にしない。
大会社なのだから、危機が迫ってくるはずはない。誰もがそう思い、油断してしまう。
組織の階段を一歩登る毎に、情報は50%消滅すると言われている。
3段階上がるころには情報は10%となる。

一方、情報と反する「雑音」は50%づつ増加する。
3段階上がると、雑音は90%になる。情報は雑音に消される。
組織の階段はこんな危険を孕んでいる。
TOPに正しい情報が届かず、雑音ばかりになると、TOPはいつの間にか裸の王様となる。

組織は、出来るだけフラットで、垣根の少ないのが良い。
叫んだら聞こえる。皆団子になって働くのが良い。
上役も部下も無い方が良い。
その中で、任の重い人が生まれれば良い。

組織が複雑巨大でなくても、部署間の縄張り争いが発生する。
部署TOPの権力の誇示が始まる。組織にある地位が上がるということは、その人はとりも直さず、集団の生存に関する、大きな責任を有することを意味するのである。集団の生存に大きな役割を持つわけだから、決して、権力を持つのではなく、責任が大きくなるのである。

そのために、汗をかき、身を現場に置き、誰よりも危機感を持ち、注意深く変化に対応しなければならない。身を賭してやるべき仕事である。
往々にして、部門長ともなると、両肘付きの椅子を要求し、深々と腰をかけ、その地位の居心地を楽しむ様になり、自分が権威を発揮出来る範囲に安住する。

身らの都合の良い情報を集める。権威を保つために権限の主張が縄張り争いになる。
意思の疎通を計るため、会議が増え、緊急でも必要でもないことに、多くの時間を費やされる。

自分の職務権力を失いかねないリスクを犯すことが無くなってしまう。
会社の目的が頭から消えてしまう。リスクの無い意思決定は無いのであるから、何もやらない、決められない組織上の長が生まれる。

【組織はあっても組織図は無い方が良い】
小さな会社でも、組織図を作ると、いっぱしの会社になった様に思える。
この組織図が会社を運営してくれるものと、勘違いする。
組織図からは、何も生まれないとは思わないのだ。組織は動いて機能するが、組織図は静止画像である。私達は組織図を観た瞬間から、それに囚われてしまう。固定概念である。
組織の長には、偉い人であると思ってしまう。ただ「偉い人」と思うだけで、実際にはその人がいつも集団のことを考え、集団の生命を守ってくれる代表者であるとは決して思わない。地位が上がった人が、それなりに優秀で、偉い人ではあるが、本人が思っている程、他人は評価していないものである。

地位が上がった人たちの総てが、必ずしも集団の命を支えるに足りる人物とは限らないからだ。実る程こうべをたれる稲穂の様にはいかないのだ。
地位は力が無くても、能力不足でも、その地位に就ける場合が多々あるものだ。
地位は、上から引っ張りあがる。下から押し上げても中々上には上がらない。
上の人のエゴ、学校の先輩、後輩、自分を守ってくれる部下が欲しい等々の要素で昇格が決定する。
集団が生き延びるためには、自然に力のある者が、能力ある者が、その責任を自覚して、その任にあたればよいのである。組織図なんかなくても集団は生き延びることが出来るのである。

この様にして、出来上がった組織こそが必要だと考える。
猿の集団も、蟻の集団も、組織はあるが、彼らは組織図を持っていないのである。

さて、この日本丸集団は、誰が命がけで国家のため、人民のために働き、どの様にして、生き延びるのでしょうか・・・・。
報道も、こんな視点で民の眠りを覚まして欲しいものである。