男性はシャツを購入する時に、まず自分の首周りのSIZEを指定する。第2は袖丈である。

女性は首周りではなく、バストや胴周り、袖丈が自分に合っているかが重要で、多くの女性は試着される。

男性は自分の胴周り(ウエスト)SIZEが体重の変化によって変わることは体感している。
すなわち1kg体重が増加すると、胴回りは0.8~1cmくらいは大きくなるのです。
同じように首周りの肉もついてくるのであるから、体重1kgに対して、首周りのSIZEは0.5cmくらい大きくなるのです。
ウエストはベルトを締め、ベルト穴の位置や、いつも穿くズボンが窮屈になるので体感出来るが、首周りは0.5cmくらいは、誤差の範囲でもあり、またシャツの第一ボタンを留めない人もいるので体重の増減には無関係と思っている人が多い。
この為、自分の体重が2kg以上増えると、シャツの第一ボタンが留め難くなるので、これは、自分に原因があるのでなく、シャツが縮んだと決めてしまう。

私達の作るシャツは綿100%である為、洗濯、乾燥によって、2%くらいの縮率は避けられないので(40cmの人で2/100=0.8cm)、設定SIZE39cmの人は40.5cmにして1.5cmくらい、ゆとりを持たせて作られている。従って体重1kg増加と綿素材の縮み2%あったとしても、シャツのSIZEに違和感は、あまりないものと考えているが、一番厄介なのは、シャツ購入時の自分の体重とシャツのSIZEが苦しくなった時の自分の体重差を認識されていないことによっておきるクレームである。
そもそもクレームは自分の絶対正しいという、ゆるぎない自信から生まれるものが多く、自分が絶対正しいと思っている人に、どのような説得も通用しないのである。
人間の常識は、自分が学び経験した範囲で持っている判断基準であるから、人それぞれが違った主観、常識を有しているのである、したがって自分の常識が世界の常識と考える人も大勢いるのです。

シャツ作りのプロとして話をしても、その人の前でパフォーマンスを実施できるわけではないので、本で得た知識を振りかざしてくる人には困ってしまう。
ゴルフのように理屈はそうでもその通り球が飛ばなければその人は素人で、理論はプロ並みでも球が理論どおりに打てなければ、その人は素人として納得する。

服飾の世界では、物の本がそれらしく書いてあり、にわか勉強でも”通”とまかり通る。
その人が球を打ってくれる、すなわちどんな服装をしているかが判れば、見破ることもできるが、相手は姿を現さないから、対応にも苦しんでしまう。

SIZE感というものは、体感であるから、自分の体型や体重の変化によって、購入した衣服に体感が変わるのは当たり前の話であるが、これを納得する人は少ない。つまり自分は不変なのであるから。
私達が物を創る時、サイズを設定する、たとえば39cmの首周りのシャツと言った場合、工場に39cmのシャツを作れという指図は出せない。
生地を切る刃物の巾や、工場が使用している物差しの誤差は刻々変化する。一方、布地も温度や湿度によって伸び縮みする。
すなわち、絶対的な条件下で(常に一定の条件のもとで)作業が行われるのではない。
従って39cmとは39cm±0.3cmくらいの範囲を認めなければ、作業を進めることはできない。

一方、物差し(メジャー)であるが、私達の世界に正しいメジャーは存在しない。
総てメジャーは正確でないからである。
なるべく、温度、湿度に左右され難い材料が使われたとしても絶対ではない。
従って、私達は不確定なメジャーを使い不確定なものを作っているが、人間の生活で不都合を生じない又は感知し得ない範囲の設定がなされているのである。

かつて、メートル原器が設定されたのは、せめてこれこそが正しい1mであると決めなければという事で地球の子午線の4,000万分の1を1mとして、白金99%イリジウム1%の合金で、摂氏0度で両端の目盛の差が1mになるように作られたものであった。
しかしこれも、絶対的でないという事で1mとは2,997,792,458分の1秒すなわち約30億分の1秒間に光が進む長さとなったのです。
こうなると、私達にとって、1mという絶対値はイメージすらできない現実離れの存在となってしまう。

この様に私達の世界には39cmという長さは存在するけれどもそれを実測することはできないということを認識しなければならないのです。
私が測ったら、39cmのネックサイズのシャツは39.4cm、あなたが測ったサイズでは38.9cmなんてことが当たり前のように生じるものですから。

クレームがいただけるのは、私達に新しい発見を促す事も多く大変貴重なものであり、実際物作りを進化させたいくつかの例もある。しかし世の中の真実や、絶対と思い込んでしまっているこんな事にも、もしかしたらそうなのであろうか、という風に深く考える、思い巡らす必要は、ないのだろうか。