私の会社は世界で活躍するビジネスマンを応援する事をその目的の一つにしている。
仕事柄、多くの業界のTOPの方々や、クールビズが始まった頃から政治家の方々まで、服飾のアドヴァイスをする事が増えている。
そんな活動を通してまことに残念に思うのは、皆様に日本には洋服の文化はなかったという認識がない事なのです。
洋服の効用やマナーに関する知識の欠如なのでしょうか?
服を着る、着飾る、すなわちオシャレをする。
それはFASHIONする事であり、男性も女性も服を着る目的が同じと錯覚しているのです。
何度も言うように、女性は美しくあればよいのです。
極端な言い方をすれば、シャネル5番だけでもそれは美しいという事で容認されるでしょう。
例えは極端であるが、女性の着飾る、FASHIONする事と、社会人としての男性が求められる要素は全く違っているのです。
当然社会進出した女性がソーシャルな場面で要求される服装にも、それなりの節度が必要です。
男性の社会的な場面で要求される服装は、私達日本人が西欧の社会と交流を持つ場合、日の沈まない国 大英帝国が歴史的に積み上げてきたウエストエンドルールが基本であり、どの欧米諸国もそのルールを踏襲しているのです。
このルールを外してしまうと、彼らから対等の扱いを受けることは期待できない。
男の服、スーツを中心とする服飾はあまりにも変化に乏しい。
それ故に微細な事にこだわり、頭の天辺から足の爪先まで全体が美しく調和の取れたスタイルが望まれる。この調和の達人が粋な男性であり、そのにくいばかりの気配りと、その涙ぐましい努力をもってダンディズムと呼ばれる所以なのであります。
社会に出る前の男性は社会的な公の機会が少ない。
従ってルールの無いカジュアルウェア等で女性と同じ土俵でオシャレをすればよい。 女性に負けない化粧をするのもよい。しかし一旦社会に出る関門ではいきなりリクルートスーツスタイルを着用する。
考えた事も無く、着用した事も無いスーツ姿に成る。
何でも良いから上下揃いのスーツを着る。そして試験には合格して会社に入ってくる。
会社にはスーツ姿に白いシャツ、地味なネクタイをしていれば皆に紛れ上司にとやかく言われない。上司もそれ以上服装に関心があるわけでない。そんなスタイルが日常に成り、何の疑問も持たなくなる。
こうして日本の男性は、服の魔力、自己を主張する最大の武器を放棄することになる。
社会進出した以上そこは戦いの場であり、海外とビジネスを、政治活動を展開するとすれば対峙する相手を初対面で威嚇、もしくはこちらの品格を認識させる必要がある。
まずそれは服装に始まる。 この初対面の印象の重要さは、誰もが知っている。
日本人対日本人であれば、相手のレベルによっては事無きを得ることもあるが、欧米の彼らとの対峙は厳しい選別の目に晒される。
『オヌシ出来る』
と思われなければ、語学が巧みであってもネイティブスピーカーでない限り説得力は無残にも失敗という事になる。
明治の始め、公式の服装を洋服と定めた当時政治家の方々、産業界の新しい担い手の方々、上級官史の方々。
それはそれは服飾に気を配り、研究を重ね、どこから見ても誰からも『流石』と言わしめる服装を心がけたのでした。
それは対峙する相手への礼儀であり、特に列強諸外国に接する場面での弱国日本の緊張振りが、服飾への最大の気配りが推察される。
『臆しまい、負けるものか、勝たねばならぬ。』
服装は大きなプロテクターであったのです。
それ故に人の上に立つ人々、それを志す人達は服装に投資し、その効用、見返りを認識したのです。
現在の私達の周りにこんな思いで男の服装を考えている人がどれほどいるのでしょうか。
先達が残してくれた遺産は戦後と共に飛散したのでしょうか。
弊社のNETで買物をして下さる大阪の弁護士さん。
大手会社の知的所有権訴訟に係わっている方の嘆き。
日本の弁護士5人、米国5人、法廷での第一回顔見せの場に臨む。
相手5人の目も眩む服装に圧倒される。
誰の目にも洗練され高級感に裏打ちされたバランスの良さ。
それに引き換え、日本弁護団のみすぼらしい事。
一ラウンドノックアウト。
今まで1勝10負。負け続きだ。
それでも未だ外見改革は恥ずべき行為と頭の良い人は考えている。
服装の魔力を信じようとしない。
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