2007年、「秩父宮記念スポーツ博物館」(新宿区)内で、副館長と対談をした。テーマは赤ブレザーだった。なんでいまごろと思ったが、いま思えばそのころからオリンピック・ブレザーは石津謙介デザイン説が広まりつつあったのではないか。
わたしは知っていることをすべて話した。石津からデザイン画を依頼されたこと、そして色は「赤」と指定があったとも。
東京五輪(1964年)当時、赤ブレザーは抵抗があった。赤は女性色との思いが強く、「男が赤を着るなんて」の時代だった。だが、ブレザーが「BLAZE(炎)」を語源としていることを知っていたし、個人的には2年前の62年、「アイビー・クラブ」のユニフォームとして穂積和夫ら7人で着た実績を持っていた。なので、石津からの赤の指示に驚きはなかった。むしろ、われわれの方が先だったことに優越感を持っていた。
手渡したデザイン画の行方は知らないし、石津に結果を聞くこともなかった。
(つづく)