1945年4月13日午後10時過ぎ、「空襲警報」のサイレンが鳴り響き、
父の声で起こされた。毎晩のように起こされるので、寝る時も服は着たまま、
ズボンにはゲートル(巻き脚絆)を巻いていた。防空ずきんをかぶり、靴をはく。
「今夜はいつもと違う」父の言葉で、母と家を離れ安全な場所に避難する。
表通りに出ると、周辺は火に包まれ、逃げる人でいっぱいだった。
地上のあわただしさを見下ろすかのように、B—29が超低空で飛行する。
下界は爆音とヒュルヒュルと焼夷弾が落ちる音で満ちていた。
不思議に恐怖心はなかった。
徒歩15分ほどの所にある護国寺の墓地で一夜を明かした。
お墓に爆弾は落とさないとの母の読みだ。明るくなるのを待って家に向かう。
周囲は様変わり、一面焼け野原で煙が上がっていた。
冬なのに暖かかったのを子どもながら覚えている。
わが家も全焼、煙がくすぶっていた。この夜の山の手大空襲で文京、豊島区はほぼ全滅した。
(つづく)