私は小学4年生になったとき、坂本さんという女の子の隣の席になりました。そのときの嬉しかったこと!
というのは、彼女は、とても可愛くてしかも普通の子供とは違っていたのです。
でもどこが?というのは分からなかった・・・今は洒落た子供服が珍しくありませんが、当時、女の子の服はピンクや赤、しかもほころびにつぎをあてた服を着ていたものですから、モノトーンなんてとんでもない!
でも彼女はモノトーンを着ていたのです。
そして隣に座って一番衝撃的だったのは彼女の文具でした。
学校給食だけでは栄養が不充分でしたので、アメリカから配給された肝油のドロップを強制的に食べさせられた、そんな時代ですから、今まで見たこともない綺麗な色のランチボックス、ペンケース(当時は筆箱と呼んでいました)、下敷き、鉛筆までも可愛い漫画の絵が描かれていました。
9歳の私、目が点!!いえ、横目でちらり。坂本さんは優しい子でそんな私にたまに「あげるよ。」と鉛筆1本くれながら「パパがね、沖縄に行くと買ってきてくれるのよ。」
沖縄ってこんな可愛いものあるんだ?・・沖縄ってどんなところだろう?
まだ沖縄返還前だったのです。
坂本さんが持っていた文房具は舶来品―アメリカ製だったのです。
私の文具は何も可愛くなくて、粗悪品の代名詞、メイド・イン・ジャパンでした。
もう、ホントにうらやましかった!
戦後生まれですからお腹すかせたなんて記憶はないのですが、ある日、坂本さんが「昨日、ハンバーグ食べて美味しかったのよ」と言いました。
「えっ、ハンバーグ?それなーに?」と、幼い私は尋ねることができませんでした。
私はそんなモダンな響きをした「ハンバーグ」などというものを食べたことがありませんでした。「ウン、ハンバーグって美味しいよね」と、子供心に見栄を張って答えたものでした。
今はアトレ恵比寿の「つばめグリル」で夫と和風ハンバーグを毎週のように食べています。
感謝!!
何しろ、そのころの子供は、バナナをお腹いっぱい食べるのが夢で学芸会と遠足と運動会はその夢が叶えられるので、とても楽しみでした。
坂本さんは鎌倉の大仏のそばの立派な洋館に住んでいました。彼女の家に遊びに行くと食べたこともないような美味しいお菓子がおやつに出てきて、紅茶が添えられ、それを立派な応接間でいただいたものでした。
しかも彼女のお母さまが、何だかいい匂いがして・・・綺麗な方でした。
今、振り返りますと私は坂本さんの服装やライフスタイルに憧れていたのでした。
中学生になると、今は亡き母にねだり、月に数回は洋画に連れて行ってもらっていました。
その頃は父兄同伴が学校で義務付けられていたのです。母は昔の人で、東映時代劇華やかなりし頃でしたから、チャンバラ映画のほうに興味があって多分、洋画なんて興味なかったに違いないのですが、でも多感な少女時代の楽しい思い出をたくさん作ってくれました。
鎌倉には「名画座」という洋画ばかり上映する映画館が1軒ありました。合計4軒映画館があり1軒は東映時代劇「新吾十番勝負」などが、1軒は東宝映画で森繁久弥さん「三等重役」などが、あとの1軒は大映映画が上映されていました。
名画座の入り口にはたくさんの華やかな映画の宣伝ポスターが貼られそれを眺めるだけで豊かな外国にいるような気分になったものです。そして名画座の廻りはいつも人で溢れていました。今、その跡地には駿河銀行がありまして隔世の感があります。
娯楽といえば映画を見るか、本を読むくらいしかなかった時代で、私は本も大好きでしたが映画にも夢中になりました。
そして映画を見たその夜は眠りながらその映画のヒロインになるのです。
赤毛のアンではありませんが、とにかく空想することが好きで、あるときは「風とともに去りぬ」のスカーレットオハラ・・・ビビアンリーの美しさに唖然としたものですが、同時にクラークゲーブル扮する「レッドバトラー」という男性に惹かれたのであります・・・また、あるときは「ローマの休日」のプリンセスになったりと、とにかく大忙しでした。
私にとっての映画は空想するための材料探しだったのかもしれません。
そのころ、私の空想をそのまま書いた小説が実は今も残っておりまして、これが笑ってしまうのですが、幼稚で夢見る少女そのままの物語です。
昔はよかった、なぜって文句なく美しい女優がたくさんいて又、男優もしかりでした。
「太陽がいっぱい」という名作がありました。美しいメロディとともに現れたアランドロンというフランス俳優の美しかったこと!
男性でも美しいという形容詞がぴったりの人でした。澄んだ深い海のような青い目にくぎ付けになりました。
「スクリーン」などの映画雑誌も大好きでした。映画雑誌に欠かせないのが映画評論家でした。
小森和子さん、通称「小森のオバチャマ」が大活躍なさっていて彼女はいつも「ジミー、ジミー、ジミー大好き」と記事を書いていらっしゃいました。
えっ、ジミーってだーれ?きっと素敵な人に違いない!
そのうちにそれが誰のことを言っているのかやっとわかりました。
JimmieってJamesの愛称なのですね。
Jack and Betty(中学の英語の教科書のタイトル名)には、ありませんでしたので、これが分かってとても嬉しかった!
それでニックネームがやたら詳しくしくなって、ウイリアムがビル、アンソニーがトニーで、エリザベスはリズとかベスで、キャサリンはケイト、いえ私にとりましてはキャシーでなくてはなりません。
私の大好きな小説エミリーブロンテ「嵐が丘」のヒロインはキャシーと呼ばれていたのです。
ですから、私の小説の中のヒロインの名前はいつもキャシーでありました。
Jimmieに戻りましょう。James Deanってご存知ですか?
1955年秋の晴れた日、彼は愛車のポルシェを駆って24歳の若さで逝ってしまったのです。
「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」のたった3作の映画を残して。
でも彼は永遠のアイドルになりました。
小粋にデニムをはきチェックのシャツを着て、ちょっと上目使いで反抗的で、でも寂しげで・・・なんて女性は弱いですよね。
彼が生きていたら今、いくつかしら?ワッ、80歳でした!
小森のオバチャマのおかげかどうか分かりませんが、日本では彼の死後も大人気でしたが、実はアメリカでの人気ナンバーワン俳優はハンフリーボガード通称ボギーであることも雑誌で知りました。
ボギー!そうです、「カサブランカ」。
清楚で美しいイングリッドバーグマンのこの相手役がアメリカでは当時大モテだったようです。
この映画に出る前は殺し屋の役が多く決してハンサムとはいえないいかつい顔の男性です。所変われば趣味も変わるのですねと、思いきや「カサブランカ」の最後の場面、シトシトと降る霧雨の中、飛行場で愛する女性を夫の元に返す彼のトレンチコート姿の渋かったこと!
つまり不倫の物語なのです。男性は顔ではないのだとこのとき分かりました。
でも、なぜイングリッドバーグマンはボギーと泣きながら、泣いていたのですよ・・ボギーとさよならして、ボンヤリ顔の毒にも薬にもならない夫を選んだのか不明でありました。
小学高学年ごろ、日本のスーパースター石原裕次郎がセンセーショナルに登場しました。私の勝手な分析ですが、日本人のJames Dean好みと裕次郎の人気はどこかで一致するのではないかと思います。
晩年、裕次郎さんは貫禄十分の警部などを演じていましたが、彼の魅力を最大限に発揮したのは「嵐を呼ぶ男」ではなく石坂洋二郎原作映画化「陽のあたる坂道」であると思います。
どこか「エデンの東」のような主人公で、愛に飢えて、ちょっとひねくれ、さびしがり屋な裕福な家に生まれた不良(古い言葉ですね)を、演じてとてもすてきでした。
どこか実の彼とリンクしていたからです。
造船会社の重役を父に持ち、そのころ本当に庶民には手の届かない自家用のヨットを逗子の自宅近くの海で操縦し、スポーツカーを乗り回していた若き日の裕次郎さん。
でも不良とか太陽族とか言われた彼の奥さま北原三枝さんに宛てた手紙の文字の何と知的で美しかったこと!
これを小樽記念館で見たとき本当に素敵な人だって思いました。
今はCDの時代ですが当時はLPという何曲も入った大きなレコードとドーナツ版という2曲しか入ってない小型のレコードの時代でした。
誕生日に小型のレコードプレーヤーを買ってもらいましていつも聞いていました。
ポールアンカ、ニールセダカ、コニーフランシス、エルビスプレスリーとキラ星のごとく登場してきました。
昔のメロディは覚えやすいので、英語の歌詞を意味も分からず暗記して一緒に歌うことができました。
私は、歌いながらポニーテールのヤンキーガールになっていたのです。
私が乙女心に白いシャツって何てすてき!!と、思ったのは、ポールニューマンの若妻を
演じたエリザベステーラーのシャツ姿です。
たしか「熱いトタン屋根の猫」という大人の映画でした。
その頃日本で人気絶頂だったのはオードリーヘップバーンの清楚な美しさでしたが、アメリカではリズのほうが、人気があったようです。
彼女はシンプルな白シャツを官能的な容姿に身を包み、黒いシンプルなタイトスカートに黒いハイヒール、たったそれだけでした。
余分なものを一切剥ぎ取った美しさというのでしょうか?ゆえに彼女の美貌が際立ったのだと思います。
こういうスタイルって美しいのだと、初めて知りました。
リズと初めて出会ったのは「若草物語」というルイザメイオールコット原作の映画でした。少女時代オールコットの物語が大好きでした。
4人姉妹の物語でリズは気位の高い三女のベスの役でとても綺麗な少女でした。
彼女のシンプルなシャツ姿はとてもまぶしくて今も、まぶたに焼き付いています。
もちろん、当時の日本にあるわけもなく、あったとしても庶民には手の届かないものであったと思われます。
また、白シャツが手に入ってもリズのようにはいかないに決まっています。
日本では白シャツの価値が理解されてなかった、というよりは誰も知らない時代のことでした。
私もこんなシンプルなスタイルの似合う大人になりたいなって漠然と想ったものでした。
それがこうして、遠い彼方に置き忘れた白いシャツと毎日会うことができるなんて、とても不思議で幸せです。
いつの頃かさだかではないのですが、ノーマンさんというアメリカ人が母、叔母、そして私の3人を車で座間の米軍キャンプに連れて行ってくださいました。
車に乗るのも初めてだし、米軍基地も興味深々だし有頂天でした。
そこは今までに見たこともない夢の世界でした。一歩そこに足を踏み入れると豊かなアメリカがありました。
初めてコカコーラとコーヒーに出会いました。
ランチをキャンプ内のレストランでご馳走になっていますと、綺麗な金髪女性とすてきな背の高い男性がやってきて隣の席に座りました。
金髪と白のタイトスカートだけが今も、鮮明に焼き付いています。
食後、二人はすっと立ち上がり中央に進み出て、ジュークボックスから流れるリズムに合わせダンスを始めました。
流行のジルバを踊っていたのでありました。
今、思い返せば、この美しい金髪女性をうっとり見つめるちっぽけな日本の少女に、彼女は一瞥(いちべつ)も、くれようとはしませんでした。
あの時、私は何を感じ、何を期待したのでしょうか?多分、にっこり微笑んでもらいたいと思ったに違いありません。
その時、幼いながら日本人としての誇り、identityを強く意識したのではないしょうか。
私は、鎌倉観光に来た米軍の兵隊さんに「Give me chocolates」とは、言ったことありませんが、チョコレートやガムをもらったこともありますし、兵隊さんの腕にぶら下がって真っ赤な口紅とマニキュアをつけた派手な日本女性を見て、何だか、もの悲しく思ったこともあったそんな時代でした。
2~3年前、横須賀の米軍基地での将校主催のパーティーに招かれました。歓迎され楽しいひとときを過ごしました。
この日、少女のころに夢見た国は、遠くかけ離れたところにではなく、私のすぐそばにありました。
「日本は本当に頑張ってここまできたのだ」と、なぜか胸が熱くなりました。
今、日本の女性は本当にお洒落になりました。ニューヨークやパリの女性と比べてもひけをとりません。いえ、それ以上です。
ぜひ、自信を持っていただきたいと思います。
シンプルで美しく知的な白いシャツを着こなす日本女性が、もっと増えて世界中から憧れられる存在になっていただくこと、これが私の願いです。
「衣食足りて礼節を知る、そして礼節を知ってエレガンスを習得する」私は常々こうありたいと思っております。