1963年、高校1年の11月のある日、朝起きてテレビをつけましたらケネディ大統領が挨拶をしていました。
すごいな~・・・初めての日本とアメリカの衛星通信開始の日でした。
今でこそ、世界中の出来事をインターネットやTVでタイムリーに見ることが出来ますが当時、この衛星通信は画期的なことでした。
しばらくしますと、ただ事でない様子が画面から伝わりました。
パレード中のオープンカーが猛スピードで駆け抜けていたのです。
遊説中のダラスでアメリカの第35代ジョン・F・ケネディ大統領(以下JFK)が48歳で暗殺されたすぐ直後の映像でした。
本当にびっくりしてそしてショッキングな映像でありました。
43歳の若くてハンサムなJFKが世界の超大国アメリカの大統領になったとき、彼の政策やポリシーは分からずとも、何だか心が浮き立ったものでした。
まるで新しい光が、希望が満ちてくるようでした。
特に私は「祖国があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが祖国のために何が出来るかを考えよう」と、国民に語った有名な就任演説にとても感動しました。
私の高校はカトリックのミッションスクールでしたので、授業が始まる前に御ミサがありましてテレジア母様(テレジアはは様とお呼びしていました)という方が「あなたたちは、日本のよいお母さんになるのですよ。」と、毎朝全校生徒にお話しいただいておりました。
ただ「よいお母さんになりなさい」ではなく「日本の」という個所がいつもあることは、よいお母さんになって、よい子供を育てること、これが祖国日本のためになることであると、知らず知らずのうちに刻み込まれたのでありました。
それで、高校生ながら彼の就任演説を自分と照らし合わせ考えることができたのではないかと思います。
そして新たな美貌のファーストレディ、ジャクリーンケネディの登場は夢見る少女にとりましては、拍手喝さい、その一挙手一投足を見つめたものでした。
何しろ、若くてお洒落で綺麗な33歳のジャクリーン、通称ジャッキーは世界中の憧れの的になりました。
ジャクリーンの前のファーストレディは、アイゼンハワー大統領のマミー夫人という太った方で年齢も60代くらい「アメリカのお母さん」という感じの方でした。
ですから若くてハンサムな大統領とその夫人に世界中が熱狂したのも当然です。
現在も、「ジャッキースタイル」が、ファッション雑誌に度々、登場していますがそのスタイルは、今もこれからも、決して色あせることのない永遠のクラシックスタイルそのものでした。
特に公式の場で「白のタンクドレス」に身を包んだジャッキーの姿は気品があって大好きでした。
これはノーカラー、ノースリーブのシンプルな白のワンピースです。それに三連の真珠のネックレスをつけていました。
ある日、テレビで偶然、JFKの誕生日パーティーのフィルムを見てしまいました。見てしまいましたとしか言いようがありません。
そこには肌もあらわなセクシーなドレスを着たマリリンモンローが「Happy Birthday、Mister President」と、体をくねくねさせながらJFK当人に向かって舞台で唄っていたのです。
十代の潔癖な乙女の私は、何だかビックリしてしまって、見てはいけないものを見てしまった気持ちになりました。
JFKとマリリンモンローは噂になっていたけどホントだったのね、と変に納得しました。
聞くところによりますと彼は、プレイボーイだったとのこと。
そりゃそうだ、当り前!と、今は、思いますがその時は、とても嫌な気持ちになりました。
写真を見ると彼のスタイルは典型的なアメリカントラッドで、やはり今、見ても本当にすてきです。
そんな彼が暗殺されてしまった・・・ジャクリーンやその子供は大丈夫かしらと、クラスメイトたちと大騒ぎしました。
数年してジャッキーはギリシャの富豪で、オペラ界の歌姫マリアカラスと別れた船舶王オナシスと再婚しました。
失礼ながらどうしてあんな顔の男と再婚したのだろうと、がっかりしたものです。
でもその後、雑誌で見るジャッキーはとてもすてきでした。
GUCCIのいわゆるジャッキーバッグ、大きなサングラス、そのどれもがクラシックでリュクスなジャッキースタイルのアイコンとなりました。
ワンピースやジャケットを着ればある程度完成しますが、カジュアルスタイルはそうは行きません。
ややもすると家でごろ寝するときと同じスタイルになってしまいます。
そこがジャッキーの凄さであると思います。
この時代、お洒落で美人ですてきな人がもう2人いました。
グレースケリーとオードリーヘップバーンです。奇しくも3人とも1929年生まれです。
グレースケリーは、金髪の美人で「クールビューティー」と言われていました。
「真昼の決闘」で初めて彼女を見たときこんなに綺麗な人はいないのではないかと思いました。
ヒッチコック映画に度々出演していましたが、カンヌ映画祭で出会ったモナコのレーニエ大公と結婚して王妃となり、「シンデレラ」と騒がれましたが、元々はフィラデルフィアのお金持ちのお嬢さんだということです。
女性の憧れのハンドバッグ「ケリーバッグ」は元々、サックドクロワと名付けられたバッグですが、グレースが妊娠中の大きなお腹をこのバッグで隠したので「ケリーバッグ」と呼ばれるようになったそうです。
ところで2~3年前から「ケリー」というコロンも発売されていたりして亡くなって20年もたつのにそのネームヴァリューはすごいですね。
我が家で以前、飼っていたアイリッシュセッターの名前も「グレース」でした。
夫が彼女のファンだったようです・・
ある日、ニュースでグレース王妃が車の事故で亡くなったことを知りました。
このころ、アメリカのキング牧師が暗殺されたとか、JFKの弟のロバート司法長官が暗殺されたとか驚くことが多かったのでグレースの訃報に「又か!」という暗澹とした気持になりました。
そしてオードリーです。彼女の映画で私が好きなのは「緑の館」と「ティファニーで朝食を」という映画です。
「ティファニー・・」の映画はあまりにも有名ですが「緑の館」は少しマイナーですね。
この映画はオードリーの当時夫だったメルファーラーが監督した映画ですがあまり評判はよくなかったようです。
オードリーはたくさんの映画に出演していて、そのどれもがすてきですね。
私はこの「緑の館」で初めてアンソニーパーキンスに出会ったのです。後年、ヒッチコック監督の映画で殺人鬼を演じた「サイコ」であまりにも有名ですが、この映画のトニーことアンソニーパーキンスは、オードリー扮する妖精のような少女に恋する初々しい青年でした。
この後、映画「のっぽ物語」で、ジェーンフォンダと大学生を演じましたがそれは彼の真骨頂といえるでしょう。
そのスタイルは憧れの「アイビーリーガー」の大学生そのものでした。
それから少しして日本でも「アイビー」とか「トラッド」という言葉が流行ってくるのです。
トニーは系統からするとジェームスディーンのグループに属しました。
つまり照れ屋で寂しそうな・・・
そしてこの派のグループリーダーは、ゲーリークーパーではないかと勝手に考察しています。
それでですね、女性はというか、私はこのグループが好みだったのです。
フランソワーズサガンの小説を映画化した「ブラームスはお好き?」という映画で、43歳の人妻イングリッドバーグマンを、雨にビショビショに濡れながら待っているトニーのベージュのトレンチコート姿に胸が締め付けられたものでした。
女優もよくトレンチコートを着ていました。「カサブランカ」のイングリッドバーグマン、それにカトリーヌドヌープも「シェルブールの雨傘」で、ベージュのトレンチでした。トレンチコートって衿を立てて羽織るだけでカッコよくなってしまう魔法のコートですね。
最近はショート丈やフリルがついたり、といったトレンチコートが出現していますが、やはりベーシックなスタイルが一番素敵です。
でも昔のサイズ感では今の気分は表現できません・・それは丈が長かったり、大きめだったりしますから。
ちょっとスリムでひざ丈のベーシックなトレンチコート、私はこれを前から着たかったのですが意外とありませんでした。
それで今年、これを鎌倉シャツがとうとう作りましたよ。手前味噌ですがとてもよく出来ました。
ロングマフラーや大判ストールをふわっと巻いたらあなたはもう女優!!
それに大きなサングラスをつけたら・・何だかカッコ良過ぎてしまいます。
トレンチコートの男性も凄くステキ!前述のトニーやハンフリーボガードのやたら渋かったこと。ご安心くださいませ。鎌倉シャツはメンズトレンチコートも作ってしまいました。
東京オリンピックがあって、それから銀座のみゆき通りを闊歩する若者が出現しました。
通称「みゆき族」と言われ、アイビースタイルに身を包んだ若者たちでした。
「VAN」のロゴで有名な石津謙介さんがアメリカのアイビーリーガーのスタイルを日本に紹介し、たちまち旋風を巻き起こしたのです。
高校生だった私はメンズクラブを読んだり平凡パンチ(これも雑誌)を見たり、とても憧れたものでした。
当時、このスタイルは不良だとか、何だとか・・・言われましたが。
高度成長期だったのですね。日本が追いつけ追い越せと頑張った時代でありました。
人口の多いベビーブーマーの世代(私もです・・)が、青春期だったのですから、今のように少子化対策なんて考えることもなく日本は輝いていたに違いありません。
そう、このころ、ビートルズが衝撃のデビューをしたのですが、彼らの初期のころのナンバーにはあまり興味が湧きませんでした。
でもバラード、特に「ヘイ、ジュード」は大好きになりジュークボックスで何度も何度も聞いたものです。音楽って不思議な力を持っているのですね、その曲を聞くたびに当時が鮮やかに蘇る・・・
沢田研二のタイガースやブルーコメッツ、マチャアキやかまやつの「スパイダース」などたくさんのグループサウンズも登場しました。
沢田研二といえば3年前、東京ドームで彼の「還暦コンサート」がありまして長女が一緒に行こうと切符をプレゼントしてくれました。
エッ、ホント!嬉しい!!
彼はお酒を絶って準備したとかで、けなげに舞台いっぱい踊りながら6時間唄いっぱなし。彼の姿にとても感動しました。
青春のあのときを思い出しながら満員の観客(オバサンばかり)と長女と私、夢の中にいるようで大興奮でした。
娘の優しさに感謝しながら私は何と幸せと思いました。
鎌倉の由比ヶ浜、七里ガ浜そして鵠沼海岸、茅ケ崎の海辺のルート134沿い通称「湘南道路」に、今では全く珍しくありませんが、洒落たイタリアンレストランが出来始めました。
そして素人バンド、といっても学生ですが・・現在「オヤジバンド」へ移行中・・が、そのちょっと洒落たレストランを借りあちらこちらで「パーティー」が催されていました。そこでツイスト、サーフィン(2つともダンス)を、皆で踊ったのです。
このダンスはそれまでの社交ダンスと違ってみんなで踊れる画期的なダンスでした。
そのころ仲良し友達も私も門限があって夜、出かけることは禁じられておりました。現代の女性には考えられないですね。
でも、それが普通!!そんな時代でした。
ですから、色々、親に嘘をつきまして・・・でも、嘘をついて夜遊びといっても9:00には何食わぬ顔して帰宅しておりましたから可愛いものです。
そして波乗りサーフィンボードも登場してきました。
楽しい娘時代でした。
そうそう、紺色とグリーンのチェック、いわゆるブラックウオッチのプリーツスカート、それに竜の落とし子のワンポイントがついた白いシャツ、それにブラックウォッチの傘までさして喜んでいました。
これは横浜元町にある「フクゾー」のもので大人気でした。
当時でもスカートが5000円くらいしていました。
そして靴はコインローファーです。VANが登場する前のことですからかなりトラッドだったのかもしれません。
振り返ってみると映画や雑誌、読書に影響されたのですね。
映画「マイフェアーレディ」、オードリーヘプバーン扮する貧しい花売り娘がヒギンス博士に引き取られ汚い言葉を猛特訓で直されて、見事にレディに変身する話ですが、これを見たとき、汚い言葉でしゃべると顔も醜くなることを発見しました。
あのオードリーでさえ、変な顔になったのには驚きました。
そして「プリティウーマン」でも町の女ジュリアロバーツがリチャードギア扮するお金持ちから洋服をたくさん買ってもらいレディに変わっていく姿、これもびっくりしました。
言葉づかいってその人のたたづまいまで影響するなんて思いもよりませんでした。
そして服です。今、服にたずさわる仕事をしていて「服が語りかける」ことを実感しています。
言葉づかいを正しく使ってそして、身じまいをよくする、基本ですがもう一度気をつけていかなければと今更ながら思っております。