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メードインジャパンの将来はお客様の支援が必要です。
2017年7月14日 貞末良雄のファッションコラム
日本の繊維製品の国内縫製比率は2.7%を下回る現状です。
約40億枚の流通量の内、約1億枚である。
海外製品の流入は39億枚、しかしながら正規で販売されるのは60%、23億枚強、16億枚がセール又はアウトレットで販売されていると考えられます。
正規販売で60%正規消化であれば、会社が利益を出そうとすれば小売価格の15%から20%の原価率が求められます。
こう考えると国内で商品を作ることは、難しくなります。
海外比率が高くなり、低い賃金の国を求めて工場探しが始まり、工場建設が、2000年ころから主流になっています。
このことが一時的に会社の延命につながりますが、大量に注文する、シーズンの9ヶ月~1年前から注文しなければなりません。
マーケットの変化・消費動向の変化が予測されても、注文が大前提で物づくりが先行して行われます。
見込み違いをして正規で50%又は40%しか売れなくてもなんとか利益を出すためには、出来るだけ原価の低い事が最重要です。
低価格低原価に拍車がかかり、15%・20%が当たり前になります。
そうなるとこの価格でこの品質、価値観が感じられない、やがて消費者からNOを突き付けられます。
これが現状の一端であることは間違いない事実です。
例えば、弊社のマンハッタンモデル、5,900円を海外平均原価率で作ったとしたら、15%で885円 20%で1,180円です。
私たちはメイド・イン・ジャパンで、工場様には縫製代金を1,450円支払っています、これは市場価格の25%になります。
それに生地代金、付属品包装費、運賃が加算されます。
また、高級な生地を使用しています。
ボタンも天然の貝、プラスチックの10倍です。
それでも、正規販売率が99%であるので、海外輸入価格で原価を抑えなくてもなんとか生き延びていけます。
売れ残りを“捨て値販売”する、等の無駄を排除し、さらにお客様に価値ある商品をご提供する事ができます。
勿論一切の無駄を排除して、私たちの会社はローコスト経営に徹しています。
現金決済と少数精鋭主義を貫いています。
このように国内生産であっても、経営が可能であることを創業25年存続をもって証明してきました。
ローコスト経営・正規商品消化率・最短距離物流・品質の確保など、国産の優位を証明してきました。
しかしながら、1993年の創業以来、国産比率は激減の一途です。
日本の物づくり、お家芸と言われる精緻な技、これを守るためには、生活者の皆様と一緒に、より情緒豊かな、文化性のある、生活スタイル、服を通じた自己実現を目指し、質の高い人生を、一度しかない人生を豊かなものにしたいものです。
更に言えば 人は良いものに触れて、成長する、良い物の力で、その人は新しい次元に導かれるのです。
これは理屈ではなく体が感じ取るのです。
「百見は一触にしかず」とカンブリア宮殿で申し上げた事なのです。
四壽(ヨンスン)永遠のライバル
2017年1月5日 貞末良雄のファッションコラム
彼は私の住む柳井市柳町に突然現れた。私が小学校4年生の時である。
私は柳町のガキ大将であった。
学校が終わり 仲間たちと、缶蹴り・チャンバラ・鬼ごっこ等、毎日楽しく遊びに明け暮れていた。
勉強など誰もしていない、良き時代である。
彼の名は白川 四壽(ヨンスン)大柄で切れ長な鋭い眼光の持ち主で結構ハンサムであった。
彼は韓国人が集団で住んでいる、地域に家族と共に引っ越して来たのである。
彼らは豚を飼育し、山羊を飼い、鶏を育て、その地域は動物糞尿などの入り混じった独特の臭いのする、集落であった。
我々が簡単に踏み込めない独特の雰囲気を醸し出していた。
彼はそこからやってきたのである。今考えてみると、彼は私たちの仲間になりたかったに違いない。
彼は強引に我々グループに割入ってきた。仕方なしに仲間に入れて遊ぶのであるが、どうしても波長が合わなく、途中で喧嘩になってしまう。当然ボスの私と取っ組み合いになる。
私も喧嘩慣れしていて、自信満々であったが、彼は何時も巧みに私の背中を取り、軽々と私を抱え上げて地面に叩き付ける。
恐ろしい力で、その衝撃は声も出ない悶絶の一歩手前である。
呻いている私を見下し、彼は悠然と引き揚げていく。
何度戦っても絶対に勝てない。
何時もの結果が待っていたが、私は絶対に“参った”と言わない。
勝負は決着していない。でも私には勝つ術がない。そんな日々であった。
5年生になっていた、ある日、私の家からほど遠くない坂道の八百屋の前で、先輩に交わって遊んでいたら、彼ヨンスンが現れ、私に喧嘩を売ってきた。
激しい言葉の応酬の後、彼は一旦引き揚げ、青竹のこん棒を引っ提げてやってきた。
彼は私を殴ると言う、殴れるものならやってみろと、一歩前に出た。
まさか殴る事はあるまい。
得物を使い喧嘩するのはルール違反だ。たかを括っていた。
しかし彼は青竹を振るってきた。頭を一撃された。痛みよりは、まさか?の驚き。
思わず左手を頭にやると、生ぬるい血がべっとり手を濡らしている。
やがて顔面一杯に血が垂れてくる。
彼はその出血の凄さに顔面蒼白になっている。
私は痛みよりは、これで彼に勝ったと思い、このチャンスを逃すものかと、逃げ込んだ彼の家まで追いかけた。
玄関前で「ヨンスン出てこい」と叫ぶ、何事かと両親が顔を出す。
その驚いた様子に私は大声で 「まどえ まどえ」 (元に戻せ 償え 柳井弁である) 何度も連呼した。
あの大きな親爺さんもぶるぶる震えている。ヨンスンを出せ、私は勝ち誇って大声でわめいていた。
異変を聞いた長女の葉子姉さんがやってくる。
「よちゃん、どうしたの?」
「大変だ、直ぐお医者さまに」 と近くの外科医に連れられた。
幸い2針の縫合ですんだが、頭は包帯でぐるぐる巻きだ。
名誉の負傷だ。この姿は迫力満点だ。
家に連れて帰ろうとする姉を遮って、やり残したことがあるからと、再度ヨンスンの家の前に立つ。
「この包帯が見えないのか、 まどえ まどえ」 怖がって誰も外に出てこない。
完全な勝利をものにできた。トドメを刺したのだ。
代償に山羊を戴くことにした。
「山羊を貰っていくぞ」 と大声で、繋いであった山羊を引いて帰る。
山羊がどれだけ彼らにとって貴重であるかは判っていた。
家に山羊は必要ない、帰り道の川の辺から山羊を蹴落とした。
山羊は大丈夫、泳げるし、親爺は直ぐに助けるに違いないから。
その時以来ヨンスンは私たちの目の前から姿を消した。
あれから、何十年経っただろうか。
彼の事は忘れた事はない。40代後半の出来事である。
広島に墓参りに帰省した。
長男の経営する洋品店の入り口前に、七半(ナナハン)と呼ばれる大きなバイク3台が何時も駐車され、困っているという。注意すれば良いではないか?
兄は、「それが難しいんじゃー」
どうせならず者の仕業だろう。困ることは困るのだから。私はすぐさま、大きなバイクを移動させようとした。そのときである、3人の大柄なやくざ風の男たちに囲まれた。
「何をしとるんじゃい」
今にも殴りかからんばかりのその時、突然恰好よい偉丈夫いかにもやくざの兄貴分風の彼は、いきなり3人のやくざ者を平手打ちして、「てめいら、何をしとるんじゃあー」
「お前らが束になって掛かっても勝てる相手じゃない」、と私を見つめ、「よちゃん、久しぶりじゃ、
あんたは強かったのおー」 彼が手を差し出し、握手した。目を見つめあった。
もし今度何かあったら、この俺に連絡してくれ。
奇跡の一瞬であった、懐かしいライバルが救世主として、現れたのだ。
彼も忘れていなかったのだ。
喧嘩に明けくれた、わんぱく時代も無駄ではなかったのだ。
何時も怯まないでいたい。こんな道を歩いてきた。
彼は秘かに私を尊敬していたのかも??嬉しかった。