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I am OK and you are OK.
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
私は正しいけれど、あなたは間違っている。
1945年第二次大戦終了後、日本にやって来たマッカーサー元帥が、日本人はこんな考え方の人が多い、と言ったという話を私は30才代に聞いた事がある。
アメリカでは、こんな考え方は10才代の未青年の考え方であるから、日本人の大人は未青年と変わらない。しからばアメリカ人の大人の考え方は何か?それは「I am OK and you are OK.」
私も正しいが、あなたも正しいという事である。
なるほど、そうなのか、アメリカ人は心が広いな。くらいに思って忘れていたが、創業して、経営をするようになって、初めてこの言葉の重みを痛切に感じる事が多くなってきた。
アメリカでは100種類以上の人種が一つの国を形成している。生まれ、育ち、民族、ルーツが全く違う人種が、どの様にして調和して生きて行くか。
牛が神様だったり、豚が神様だったり、牛乳を飲んではいけない民族がいたり、コーラも許されない、もちろんアルコールは駄目など、日本人には理解する事すら難しい。
こんな民族の集合体がアメリカ(ユナイテッドステイツオブアメリカ)である。ここで皆様にもお判りの様に、「I am OK but you are not OK」とは死んでも言えないのではないでしょうか?
日本人はほぼ単一民族ですから、生まれ素姓が違っていても根本的な相違はない。
だから、他人のことは判っている。彼の考えは聞かなくても私の考えが正しい。
ここでオレは正しい、しかしお前は間違っているなどと、一人よがりの他人を顧みることのない未熟な考え方がまかり通ってしまう。
異民族の集合体では私の考え方も間違っていないと思うが、あなたの考えも、その立場上理解し得るものであり、あなたも正しいと思う。
「I am OK and you are OK」
しかし今回、事を進めるに当ってどちらかの考え方一つにしなければならない。
そこで双方が徹底的に議論する。それでも双方譲らない場合はコインを投げて裏表で決定する。(ジャンケンでもよいが、アメリカには無い)
決定したらその決定を尊重して全力でそれに当るというルールが確立している。
会社を運営していると、お客様からは貴重な御意見を多く戴いている。
建設的で素晴らしい御意見であって、それ自体間違っていないものであるが、経営を投げ打ってその正しい意見を実行する事が出来ない。
経営はバランスであり、その人が言う最高の物作りをしても価格と品質のバランスを崩す物であってはならない。
その人は言う。
「4900円のカシミヤのマフラーなど、毛羽がついて最高級のものとは言えない。価格は高くなっても梳毛糸を使って編み、毛羽の出ないカシミヤこそが本物だ。お前の会社のマフラーはまやかし物である。」
しかし梳毛糸のマフラーを作るとしたら2万円は越える。
そんなカシミヤマフラーを一点持って、後生大事に使うという考え方もあるが、カシミヤのフワーとした感触、優しい暖かさが4900円で手に入る。
この値段ならば、服の色、コートの色に合わせて何色か持って楽しみたい。
そんなお客様が私達のお客様であり、どんな商いも、全ての人を顧客にすることは出来ない。
私達が想定するお客様は、私達と同じ思いで商品を購入して下さり、想定した通りに、その商品を楽しんで下さる。そして商品に満足された人達が再び私達の店に来て下さる。そんなフローが会社の基盤になっていく。
今、私達の作るシャツは50万着という、100万mのハイエンドな生地を購入する力から、とてつもなく品質の高いシャツ作りが可能になって来ている。全てのシャツ以外の商品には当てはまらないこともある。
人が何かを主張する。
それは、その人の主観によるものであるから、その根拠は、その人の体験、読んだ活字、人の話等が基になって形成される。
人はそれぞれ違った生活体験をしているから、各々の主観が存在する。自分の主観こそが正しいなど主張することは愚かである。主観が違うから論議が生まれる。
激しい論戦、それぞれの主観のぶつかり合いの末に双方が考えもしなかった新しい価値基準が生まれる事もある。
論議を通じてそれぞれの人が、自分の考え方のヒズミや、他の主観を容認するマナーが生まれる一方、大局的な視点も養うことが出来る。
私達がいる日本は特殊な国で、ほぼ単一民族であり、島国であって、一歩も国から外に出た事がない人が大勢いて、同質的で、他文化が形成する考え方にも接する事なく、集合的な無感覚になっているかもしれない恐れを持たねばならない。
日本の常識は、外国では非常識などと言われている。
今後の日本を考える時、国を離れ、自分の主観の何たるかを検証する機会を持ちたいものである。
上質について考えてきたこと
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
残念ながら、今の日本は安い事がファッションになっている。
経済苦境を乗り越える為、生活防衛する為にはまず安い物を買う。
それはそれとして認める事は出来るのだか限りなく安いもの(すなわち時間と労力をかけていないか、流通の段階で理由ありの商品)に行きついてしまう。
このような商品の安さにビックリはするけれど、果たして感動するのでしょうか?
少なくとも人生は新たな感動を求めることがなくなったら、未来は暗いものになってしまう。
安い物が当たり前という無感覚になってしまうと、良い物についても同様の反応をしてしまう。
本当に良い物には作り手の思い、長い時間と労力があってはじめて生まれてくるものであるから、これら本当の良い物に無感動になってくるという事は、努力とか夢とか希望とか、前向きの総べての行為を評価しない、恐ろしい世の中になってしまう。
夢や希望や、感動を呼び起こすには、私達はさらなる上質なシャツを創り上げなければならない。
この一年はこれらの課題に取り組み、出来る事は即実施した一年であった。
更なる上質は次の様な要件を満たすものと再定義した。
下記の通りであります。
【上質の条件】
1.素材が限りなく良い事
美味しい料理には、何よりも素材の良さが求められます。
シャツで80番双糸(経緯とも)以上が高級シャツ地の条件ですが、私達は更に新疆綿で100番、120番も4900円で販売します。2.設計パターンが優れている事
人体に添う様に設計されます。曲線の多い人体です。
その困難な事は想像できると思います。熟練と経験と才能が要求されます。
私達は一級のパターン技術者と仕事しています。3.縫製が良い事
パターンは平面図です。これから立体の服を作るのです。
縫製は丁寧に生地に癖をつけ、縮縫い(イセコム)しながら平面の生地を立体にする技が必要です。
経験と熟練、高度な技を要求されます。
この技(力)と時間をかけて縫い上げます。この力×時間が仕事です。
それだけ質の高い物が生まれます。
経験の少ない人の仕事に較べ、格段の違いが生まれます。
熟練の縫製者は、素晴らしい上質の素材を手にする時、武者震いと緊張、良いシャツを作るんだという一心入魂につながります。
良い素材が良い縫製を誘発するのです。
(大量生産でひたすら直線縫いをする製品との歴然たる差があるのです。)4.最後に
販売の技術です。どんな優れた商品でも満足と笑顔なしではお客様に手渡りません。
私達のお客様のイメージは心ざしのある礼節を知る、自己実現を目指す人達です。
社会的場面でリーダーを目指す人々で国際社会で堂々と活躍できる人達です。
自分の質を高めなければ、その様な方々に心良いサービスの提供は出来ません。
自分のレベル以上の顧客は生まれない、という厳しい言葉もあるのですが、上質の最終の締めくくりがこの接客に掛かっています。
お客様を思う心の最後の表現者が販売なのです。
真の小売業とは、この一連の工程をさらに深く追求して行く事であります。
素材から販売までが調和し、協業にてその総和が顧客の創造につながります。
このように私達はさらに厳しい自己規律に日々挑戦し続ける社風の確立に研鑽を重ねて参ります。
リーマンショックは私達に新しい挑戦の機会を与えてくれました。
虎穴に入らずんば【2】
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
先回のコラムは、社内でも大不評であった。
難解である、何を言いたいのかストレートに理解できない。
もう少し易しく書いてくれ!
まったく言われる通りで、大反省である。
先回の言わんとすることは、今で言う、いわゆる「真・善・美」を求めることである。
汚れを知らない純粋であった幼い頃に培われた親を思う心、
人に優しく正義感に充ちた精神が、年と共に失われていく。
自立して生活する、生きていく、また、生き残るためには何をしても良い。
生きることが正義であり、生き残るためには手段を選ばない。
その結果、純粋な心を喪失してしまう。それすら気づかない。
本来的人間としての姿を失ってしまっては、人間を対象とするいかなるビジネスの将来への処方箋は
見い出すことができない。
人を助け、助けられる。その双方向の関係から、ビジネスがスタートする。
蛸は自分の足を食べて生き残るが、人間は自分の心臓を食べてまで生きる。
悲しい話ではないか。そこに、リーマンショックによって、世の中の大変動が起きた。
今までのやり方では生きて行けない、変化に挑み、現状を打破し、
新しい知識を創造しなければならない。
すなわちイノベーションである。
人々は、イノベーションの進化によって、より素晴しい生活が享受出来るようになる。
このイノベーションは、人間に対する新しい情報発信である。
人間を対象とする提案であるから、人間を軽視する環境、社風からは生まれて来ない。
得てして、大企業病と言われる現象には、自分たちの商品を買ってくれる人には
平身低頭して顧客第一主義などというが、その企業と、関連を持つ納入先や、
社内の人間すら人として考えない風潮が蔓延している事が多く見られる。
大企業は、生き残ることが社会的使命であると考えてしまう。
そんな環境の中に長くいると、知らず知らずに人間は不幸になってしまう。
こんな大企業からは、決してイノベーションを生み出すことは出来ないと思わなければならない。
どんなビジネスでも、人間が関与して営まれる。
会社は、優位な立場を利用して、延命を計ったとしても人を大切にしない会社は、
必然的にクオリティの低い会社になってしまい、ブランド化しない。人から尊敬され、愛されないのだ。
今の世の中は、こんなわかり切った事が、平然とまかり通っているから、
まかり通している会社が大きな天罰を受ける。
個々の人は善良であっても、集団となると変貌する。
皆やっているから恐くないのであろう。朱に交わらない勇気が必要だ。
私事になるが、小学校一年生、はしかを患って入学が遅れてしまった。
病弱に思えたのかもしれないが、教室に馴染めない私は頼りないチビちゃんであった。
教師の川本先生は、今思い出してみても、決して美人ではなかったが、
私には優しい暖かい先生であった。 8人兄弟で母の愛情は私には8分の1。
川本先生はいつも優しく私を包んでくれた。
運命の日がやって来た、2年生になる時が来た。クラス替えである。
先生達も、もち上がりで2年生全体を担当するが、クラスは再編成される。
もし、私は川本先生のクラスでなかったらどうしよう。
私は2年6組、熊谷先生のクラスになった。
熊谷先生は若くて綺麗な先生であったが、私には川本先生以外は考えられなかった。
放課後教員室を訪ね、「どうか川本先生のクラスにして下さい」とお願いしたが、軽く断られてしまった。
どうしても川本先生のクラスに入りたい。
小学生の私に取り得る手段は何もなかった。
私は教員室の前で、大声で泣き始めた。
思い切り大きい声で、「川本先生でなければ厭だ!」
騒ぎを聞きつけて姉たちが迎えに来たが、絶対に私はその場を動かなかった。
友達いや、学校中の笑い者になる。それは判っていた。
しかし、誰に何と思われようと、私は川本先生のクラスに入ることが、それより大切だった。
4~5時間も泣いていただろうか、緊急職員会議が行われている様子だった。
やがて教員室から、川本さんも好かれたもんじゃのぉ~という声が聞こえた。
私は勝ったのである。
私は晴れて2年3組川本先生のクラスに編入された。
子供心に私は大きなリスクを犯し、男のくせに泣き虫というニックネームと、
友達の蔑みを受けることは、承知していたが、私は本懐を遂げたのである。
今でも私は、この時の私が大好きなのである。
虎穴に入らずんば【1】
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
小学校低学年の時、歌留多取りで歌の文句の様に覚えた人生訓は、忘れることは無いはずだ。子供心にあの可愛い子虎を捕まえるのには、恐ろしい親虎のいる穴に入らなければ捕まえるのは無理なのだ。
あのリーマンショックは、世の中のパラダイムを根こそぎひっくり返してしまった。
あの日迄、私達は泰平に明日も同じ様に繁栄が待っていると思っていたのだ。
体制の中で、温々とした安眠からリーマンは叩き起こしてくれたのかもしれない。
日本も1993年、バブル崩壊に遭遇した私達は、従来の体制を打ち破り、従来に無い組織運営の在り方を、リストラクチャリングするイノベーションの必要性を叫んだものであったが、その苦しいイノベーションの道半ばにして、好転した経済環境に馴染み安住を繰り返すことに成った。
それでも、イノベーションを訴え続けた人達は、「今、うまくいっているのだから、敢えてリスクを取る必要はない」という体制の圧力である、正論に抗うことができなかった。
あの有名なダンディズムの元祖、ボウブランメルが息子に残した遺言の中に、「息子よ、正論を言う奴には気をつけろ」というくだりがあるのを思い出した。
正論は、間違っていないから恐いのである。誰も否定できないからだ。
しかし、本当に正論によって物事が決まってしまうとすれば、人は何も考える必要性が無くなってしまう。
正論通りいかないから難しいのだ。
脱線するが、正論を主張する上司に出会ったら、それはそれは悲劇である。
「人間は嘘をついてはいけません」
正論であるが、こんな事、誰も出来ないのだ。
誰にも出来ないことを、上司が求めてはいないだろうか?
会社で誰も反対出来ない正論を主張されたら、たまったものではない。
こんな時代に、売上げ10%UPを死守せよ。
言っている本人が信じていなくても、会社存続のためには正論である。理屈を言うことではない。
従来のやり方で展望が開けないならば、現状を打ち破る、従来を全否定するくらいの覚悟と進化へのイノベーションが要求されてくる。
必要なイノベーションは、血のでる様な努力と、現場100回の経験からスタートする。
すなわち、リスクを犯す、全責任を負う、決断と自負、そして熱い情熱と信念が必要だ。
私達、流通業界では、有史以来の継続的な商いのルールを踏襲している。
リスクを分かち合う大勢の仲間取引の中で、延命を計ってきたのである。
しかしながら、この仕組みの作り方に未来が展望出来なくなっている。
私達流通業界は、新しい科学技術による、発明・発見は新素材の発明以外には、見当たらない。
発明・発見は次の技術で塗り替えられてしまう。
そもそも、イノベーションは、生活者のため、その人達が更に求めている
快適な生活や幸せ、そんな潜在的欲求を満たしていく。
それを実現するために、従来にない方法、手段を考え実施する。
それが、生活者のために正しいと証明して行くことが、イノベーションと考えてよいと思う。
すなわち、過去踏襲型の経営を続ける、あるいは、業務を繰り返す。
一見短期的には、リスクは無い様に思うが、人々の潜在欲求が変化している時、長期的なスパンでは計り知れないリスクとなってしまう可能性がある。
標題の「虎穴に入らずんば虎子をず」
リスクを犯すことなく成果を得ることは出来ないのだ。
このノーリスク業務・経営は何も私達流通業界だけではない。
自己防衛のためだけの仕事、そのためには、そこに関係する人たちへの配慮が忘れられる。
自分さえ、自分の会社さえよければ良いのである。
こんなことを長く続けていると、正常な判断、価値基準は喪失していまう。
そもそも、ビジネスは人間を基点として行われるべきものである。
この人間中心の視点を忘れてしまうと、イノベーションは生まれない。
必要とされる、イノベーションは人間中心に物事を考える以外には、生み出すことが出来ないからだ。
何とかして、顧客満足を更に向上させる為には。
あるいは、何とかして、共に仕事をしている関連先に喜んでもらえるためには。そう、考えてその中に自分を投げ込み、次の一手に身からのリスクを背負うことから、イノベーションが生まれる。
現状を打破するには、こうするしかないのだ!
嘆いても、行政や経済環境をうらんでみても、昨日の続きをやっていては、何もかわらない。
人間が行う行為の中で、双方が影響し合い、世の中の営みが行われているビジネスというものは、自己完結することは出来ないのである。
自分の会社さえ良ければ、自分さえ良ければ、そんな思想から未来を見つけ出すことは出来ない。
もっとも、未来は現在の積み重ねであるから、素晴らしい今を積み重ねなければ、理想の未来はやって来ないのである。
クールビズと礼節
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
今年も6月から、省エネルギー対策として、ノーネクタイでも公式の場で礼を失しない装いとして認めましょう。という社会的な運動が始まった。服飾業界では、ネクタイ業界が打撃を受け、一方、シャツ業界では夏の正装にシャツ単体が主役に踊り出る事になった。
半袖のシャツ一枚で、公式の場でOKとなったのだから、働く男性は大喜びである。
しかし、今まで着用していた、個性の無い白の普通のシャツでは、どうにも収まりが悪い。
家族会議でも、妻や娘から「お父さん、どうるすの?」という事になった。
しかし、妻や娘もクールビズとは何であるか、シャツ一枚で「サマ」に成る装いが可能なのか!?
お父さんに聞かれても、今回だけは責任をもって「こうしなさい」と言えなかった。
かくして、お父さんは、生まれて初めて自分で、自分の服を買う破目になった。
ノーネクタイとなると、今までのシャツでは収まりが悪い。
売り場の皆様も、今まであまり売った事のない衿の先にボタンがついた”ボタンダウンシャツ”が一番収まりもよく、何とか格好がつく、と思ったに相違ない。
ボタンダウン愛好者は、シャツ販売量の5%も無いそんなシャツを着ていたのだから、マイナーな存在であったのだが、シャツ業界では、ここぞとばかりに”ボタンダウンシャツ”を大量増産する事になった。
そして、一年目、二年目のクールビズは夏のシャツ業界に幸運をもたらしたのでした。
次に起きた事は、平凡な無地の”ボタンダウンシャツ”では他との差別化が出来ない為、バイヤー様は、日増しに変化のある物を要求する様になったのです。
さて、この”ボタンダウンシャツ”は、特殊なシャツで、アメリカで発明され、激しい柄物でなければ、公式にも遊ぶ時にも使える、いわゆる水陸両用の不思議なシャツであります。アメリカの歴代の大統領の中でもケネディー大統領のボタンダウン姿は、長く人々の記憶に残るものでした。
VANは、まさに”ボタンダウンシャツ”を日本に広めた会社でありました。
かくゆう私も、VANが倒産して15年。ボタンダウン愛好者から「あのVANが作り出した衿先のカーブの復元を!」と望む声に推され、メーカーズシャツ鎌倉の設立を思い立った訳ですから・・・。
“ボタンダウンシャツ”とは、斯く斯くたる物であるというボタンダウン愛好者のうんちくがある事はいうまでもない。一見、カジュアルにも着こなせるボタンダウンシャツこそ、公式の場では正しく着こなされなくてはなりません。日本を一歩外に出れば、礼節ある振る舞いや、正しい服装に気を配らねばなりません。
世界の人々は、その様に日本人を観ているのですから。
人は見た目、第一印象で判断されます。その服装と所作が一瞬の勝負を決めてしまいます。
日本人には、洋服の歴史が無い事は何度も述べてきたつもりですが、
私達業界の人間は、カジュアルなジャンルの服飾設計は、ルールが無い為、誰からも咎められる事はありませんが、ビジネス等の公の場に於ける洋服は、西欧のルーツを踏み外した設計をしてはなりません。
何を作っても、それが売れるものであれば良いという切羽詰まった会社の事情や、バイヤー様からの要求があるかもしれない。これだけ物が売れないのだから、売れるものであれば何でも良いという、そんなクールビズシャツがマーケットに数多く出現する。ボタンダウンシャツだから、カジュアルユースだから、ルールに縛られないデザインシャツを販売する。
一理はあるかもしれない。
しかしながら、一般のオジ様、オニイ様、あるいは、その恋人達も、そんな洋服のルールを知るべくもないし、専門業者が販売しているのだから「正しいもの」と信じてしまう。
日本国内でそんな格好で闊歩しても、恐らく誰も咎め立てはしないと思うけれど、一歩、国の外に出た時、ルール外の服装が遊びの場でない、ビジネスの場であったりすると、恐らく、大顰蹙を買ってしまう事に成ります。誰も注意をしてくれないでしょう。そうして、礼節の一歩を踏み外す事になるのです。
ビジネスをする側も、購入してくださるお客様が、提供する服装を他国の人々から、高く評価される商品を提供し、着用した方々から、感謝される様なそんな心構えで商いの道を歩きたいものだと痛感する。
あまりにも、ルール外のシャツの氾濫に心を痛めて…
今を考える
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
2009年3月、やがて桜咲く春が来る。
自然界は何も変わっていない、しかし人間の住んでいる世界は大騒ぎである。
リーマンショック以降、100年に一度の世界恐慌と言われている。
私の様な小さな会社、シャツを作ってシャツを売る商人の世界からは想像も出来ない様なことが行われていたらしい。
物に関係なく、お金が宙を舞い、飛び交い、お金を動かすことで絶対に儲かる仕組みを考えた人達が、際限なく取引を拡大した。
その果てでババを引いた人が倒れ、それが引き金で儲かる仕組みに群がり集まった人達が、一挙に将棋倒しに連鎖して倒れていく。
その人達だけが、受難するのは自業自得であるが、何も関係のない人達まで巻き込んでしまっている。
こつこつと物を作って売っている小さな私は、いつもと変わらない毎日を送っているのに、知らない内に世界が変わってしまっている。
こんな風に感じる。
いつも失敗して、5度も会社を変わり、その会社がことごとく潰れてしまった経験をしているので、その経験が世の中はこんなものだと教えてくれる。
決して望みを失わないで、こつこつやって行けば、必ず希望する世界がやってくると信じているから、今起きていることにそれほど大騒ぎしたり、恐慌に引きつったりはしない。
それにしてもリーマン倒産の報が入るや否や、日本の代表格である、その尊敬する会社、世界の先頭に立っていた、ある意味屈強な大将が真先に退却したものだから、日本全軍は大混乱に陥ってしまった。
成功体験からは窺い知れない、未知の体験に遭遇する、見たこともない巨大な敵に怯えてしまったのだろうか。
誇りある先頭に立つべき大将は、決して退却を潔しとしない。
しかし総大将が退却してしまった。
次に続く人達に口実を与えてしまった。
長く日本の文化であった、潔き良さ、恥の心、大和魂、すなわち精神的なタフネスなどは、今回のどたばた、混乱の中では、ついに見ることが出来なかった。
誰かが一瞬でも踏みとどまって、時間を稼いでくれたら、その行動に多くの人が感動と勇気をもらっていたとしたら、日本は震源地である米国よりもひどいGDPの落ち込みはなかったのではないか。
我慢するという風潮が廃れてしまった。
今回の大企業の行動は、アメリカ的な合理的決断なのであろう。
人より会社(株主)を優先する。
株主に対する説明がつく行動が優先する。会社は株主のもの、しかし会社はその構成する人によって運営されている。
人あっての会社ではないのか?
よく考えてみると、今の日本の危機は他国に較べ豊かさの中での危機であって、誰も未だ飢えて死者が出たり、そこらじゅうに行き倒れが起きてるわけでない。
今まで以上バブリーに贅沢が出来ないかもしれないという危機感である。
報道は人々の不幸を増殖させている。
流通業界では、消費が冷え込み、売上減少に歯止めがかからないと考えている。
確かに全体のパイは贅沢ができない危機意識から、高級贅沢品から消費は冷えて来ている。
そうは言っても、私達の商売は、人間の欲望を充足することから始まっている。
どんな不況といえども、
人間の欲望の火を消すことは出来ない。
人間である限り、欲望は無くならない。
この不況は、人間の欲望の質の変化を促している。
この欲望の変化・方向を見定めてその先に手を打つ。
“じっと我慢して嵐が過ぎるのを待つ”動くな損をするなと号令を掛けている会社もあると聞く。
しかしどうであろうか、この変化に対応する自己革新と未知のリスクへの挑戦こそが、未来を切り開く鍵ではないだろうか。
思い出してみれば、1945年第二次大戦による、破壊と廃墟のどん底、食べる物すらない、芋の茎や野草を食べて我慢と不屈の魂を持って一生懸命に働き、いつのまにか米国に追いついた。
その後、1973年オイルショック、1985年のニクソンショック、プラザ合意後の円高(為替レートの激変)。
1990年バブル崩壊、世界中が絶体絶命と考えた日本経済は、その困難を乗り越えて、不死鳥のように奇跡の繁栄を勝ち取ってきた。
求められるのは、再び原点に返り、不屈の努力、我慢、勤勉、精神的タフネス、それを忘れなければ世界が信じているように、私たち日本の復活はそう遠くはないのである。
ビジネスマンの背広姿
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
電車通勤しているので、様々な人の服装を観察することが出来ます。
日本の男性ビジネスマンの通勤着、スーツ、ジャケットで気になるのは、上衣の袖丈です。
約80%ぐらいの方の上衣の袖丈は、親指がかくれるくらいの長さである。
この事によって、この方の上衣のサイズが合っていない印象を受けるし、だらしなく見えてしまう。
上衣の袖丈は、手首のくるぶしから1cmくらいの長さに修理して購入して欲しい。
上衣の袖口から1cm~1.5cmくらい、シャツの袖がのぞいているのが理想である。
従ってシャツの袖丈は、親指の付け根から2cmくらいの長さとなります。
上衣の袖口がシャツより長い場合。
袖口は何時も手に触れるため、脂汚れします。この脂汚れは、クリーニングでも落ち難い。
上衣は、シャツのように度々クリーニングするわけではない。1シーズン着用すれば、その脂汚れは相当なものになり、高価な上衣を駄目にしてしまいます。
出来るビジネスマンの姿は、上衣、ズボン共にサイズが体にフィットしており、上述の様に袖丈が正しく、その袖口から清潔なシャツのカフスが覗いている。それが颯爽として格好良いビジネスマンの姿なのです。
夏にむかい、暑い日の服装はさらにだらしなくなります。
サラリーマンの背広姿は、ほぼ100%近く、上衣のボタンを外し、シャツ、ネクタイが裸けて見える格好で歩いています。そこで、袖丈が長く(オーバーサイズに見える)、ネクタイを緩め、前かがみで歩いている姿は、本当に情けなくなってしまいます。
英国領であった香港(すごく蒸し暑い)で、イングリッシュ・ジェントルマンは、三つ揃えのスーツを着用し、ネクタイ姿で平然と姿勢よく歩いていました。恐らく、人の上に立って仕事をされていた人達と思いますが、厳しい精神の鍛錬とプライドが世界のリーダーとしての立ち居振る舞いをさせているのでしょうが、その姿は美しく、男性の在るべき姿をみたように思ったものです。
上衣の袖丈で思い出の深い話。
かつて、石津謙介先生が親しい人の結婚式に参列され、記念写真を撮る段に、カメラマンから、石津先生、上衣の袖から白いYシャツのカフスが覗いていますよと注意されたそうです。
当時、映画スターやスポーツ選手が欧州製のブランド品を着用していました。いかにスポーツマンで長身でたくましくても、ラテン民族のリーチの長さは比べものにならないのです。
従って、肩幅に合った上衣は、指が隠れるくらい袖が長いのです。これが、テレビの映像で流されるわけですから、あの格好いい人達の着こなしが、正統と考えたのでしょう。
石津先生は、大層なげいておられました。貞末君、どう思うかねと・・・。
さて、私達日本人のルーツには着物があり、洋服の文化を取り入れてから歴史も浅く、又その着用のルールは男子服に求められ、正しい着用の方法は教わる機会に恵まれない。
このため、単に上衣の袖丈やシャツの袖の長さにも無頓着になってしまいます。
しかし、どんな男性でも自分のスタイルが格好よかれと願っているものなのです。
まず始めに、上衣の袖丈、シャツの袖丈に注意を払って戴きたいものです。
他人に好印象を与える。
この事は、礼節の第一歩であります。
私は、外国人と接する機会が多く、初めて来日される外国人の方々は皆様、日本人の礼儀正しさに感心しています。日本人同士が、互いに頭を下げてお辞儀をしている姿は、とても美しくお互い尊厳を持って対峠していると映るらしい。
シュリーマン旅行記(1850年頃)、中国を経て日本に上陸したシュリーマンは、中国のそれに比べ日本人の礼儀正しさ品格の高さに心を打たれた様子を描写している。
私たちの先輩は、この礼節でもって、世界に堂々たる存在感を示してきたのではないでしょうか?
幕末の徳川使節団の訪米に於いては、正しく着用された「サムライ姿」であったが、米国では、高い評価を伴い大歓迎された。と記述されている。
礼に叶った服装と、その立位振舞はどの国に行っても説得力のあるものであります。
私は、何度も服装の重要性を論じてきていますが、今の日本のビジネスマンが外国で説得力ある服装立ち居振る舞いが出来ているか?
品格を失いつつある、ビジネスマナーを考えると、寒々とした気持ちになってきます。
私たちの使命、会社の使命として、誇りある日本人の目覚めを願いながら礼節ある服装の提案を続けるつもりであります。
シャツのSIZEについて(思い込みと常識について)
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
男性はシャツを購入する時に、まず自分の首周りのSIZEを指定する。第2は袖丈である。
女性は首周りではなく、バストや胴周り、袖丈が自分に合っているかが重要で、多くの女性は試着される。
男性は自分の胴周り(ウエスト)SIZEが体重の変化によって変わることは体感している。
すなわち1kg体重が増加すると、胴回りは0.8~1cmくらいは大きくなるのです。
同じように首周りの肉もついてくるのであるから、体重1kgに対して、首周りのSIZEは0.5cmくらい大きくなるのです。
ウエストはベルトを締め、ベルト穴の位置や、いつも穿くズボンが窮屈になるので体感出来るが、首周りは0.5cmくらいは、誤差の範囲でもあり、またシャツの第一ボタンを留めない人もいるので体重の増減には無関係と思っている人が多い。
この為、自分の体重が2kg以上増えると、シャツの第一ボタンが留め難くなるので、これは、自分に原因があるのでなく、シャツが縮んだと決めてしまう。
私達の作るシャツは綿100%である為、洗濯、乾燥によって、2%くらいの縮率は避けられないので(40cmの人で2/100=0.8cm)、設定SIZE39cmの人は40.5cmにして1.5cmくらい、ゆとりを持たせて作られている。従って体重1kg増加と綿素材の縮み2%あったとしても、シャツのSIZEに違和感は、あまりないものと考えているが、一番厄介なのは、シャツ購入時の自分の体重とシャツのSIZEが苦しくなった時の自分の体重差を認識されていないことによっておきるクレームである。
そもそもクレームは自分の絶対正しいという、ゆるぎない自信から生まれるものが多く、自分が絶対正しいと思っている人に、どのような説得も通用しないのである。
人間の常識は、自分が学び経験した範囲で持っている判断基準であるから、人それぞれが違った主観、常識を有しているのである、したがって自分の常識が世界の常識と考える人も大勢いるのです。
シャツ作りのプロとして話をしても、その人の前でパフォーマンスを実施できるわけではないので、本で得た知識を振りかざしてくる人には困ってしまう。
ゴルフのように理屈はそうでもその通り球が飛ばなければその人は素人で、理論はプロ並みでも球が理論どおりに打てなければ、その人は素人として納得する。
服飾の世界では、物の本がそれらしく書いてあり、にわか勉強でも”通”とまかり通る。
その人が球を打ってくれる、すなわちどんな服装をしているかが判れば、見破ることもできるが、相手は姿を現さないから、対応にも苦しんでしまう。
SIZE感というものは、体感であるから、自分の体型や体重の変化によって、購入した衣服に体感が変わるのは当たり前の話であるが、これを納得する人は少ない。つまり自分は不変なのであるから。
私達が物を創る時、サイズを設定する、たとえば39cmの首周りのシャツと言った場合、工場に39cmのシャツを作れという指図は出せない。
生地を切る刃物の巾や、工場が使用している物差しの誤差は刻々変化する。一方、布地も温度や湿度によって伸び縮みする。
すなわち、絶対的な条件下で(常に一定の条件のもとで)作業が行われるのではない。
従って39cmとは39cm±0.3cmくらいの範囲を認めなければ、作業を進めることはできない。
一方、物差し(メジャー)であるが、私達の世界に正しいメジャーは存在しない。
総てメジャーは正確でないからである。
なるべく、温度、湿度に左右され難い材料が使われたとしても絶対ではない。
従って、私達は不確定なメジャーを使い不確定なものを作っているが、人間の生活で不都合を生じない又は感知し得ない範囲の設定がなされているのである。
かつて、メートル原器が設定されたのは、せめてこれこそが正しい1mであると決めなければという事で地球の子午線の4,000万分の1を1mとして、白金99%イリジウム1%の合金で、摂氏0度で両端の目盛の差が1mになるように作られたものであった。
しかしこれも、絶対的でないという事で1mとは2,997,792,458分の1秒すなわち約30億分の1秒間に光が進む長さとなったのです。
こうなると、私達にとって、1mという絶対値はイメージすらできない現実離れの存在となってしまう。
この様に私達の世界には39cmという長さは存在するけれどもそれを実測することはできないということを認識しなければならないのです。
私が測ったら、39cmのネックサイズのシャツは39.4cm、あなたが測ったサイズでは38.9cmなんてことが当たり前のように生じるものですから。
クレームがいただけるのは、私達に新しい発見を促す事も多く大変貴重なものであり、実際物作りを進化させたいくつかの例もある。しかし世の中の真実や、絶対と思い込んでしまっているこんな事にも、もしかしたらそうなのであろうか、という風に深く考える、思い巡らす必要は、ないのだろうか。
一通のレポート
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
この早稲田大学の学生のレポートを読んでみてください。
2007年某日、早稲田大学での私の拙い講義を聴き、レポートをくれました。
思考の深さ、行動力、深い感銘を受けたと共に、日本の将来もまんざらでないという安心感に包まれました。
男性は自分が更なるステップを昇るためには自分に投資を怠ってはいけないのです。
服装の重要性を認識しなければなりません。
20歳の学生が英国に留学して体験から得たことは、まぎれもなく服装の重要性を語っていました。
こんにちは。
昨日「ファッションビジネスを通して考える金融システム工学」でお話を拝聴させていただき、質問(クールビズについて)をさせていただいた者です(青いラコステを着ていました)。
先生(不適切かもしれませんがこのように呼ばせていただきます)のお話に大変感銘を受けました、ありがとうござうました。
先生は講義の中で、日本人男性の装いについて厳しくご指摘なさっていらっしゃいましたが、私はそのお話を聞き、居ても立ってもいられなくなりメールさせていただいた次第です。大変ご多忙のこととは存じておりますが、目を通していただければ幸いです。
先生は講義中あるいは御社Webページのブログの中で、男が「正しく」装うことの重要さを説き、装いの点において日本の男性が極めて未熟であるとご指摘なさっていらっしゃいます。
このご指摘は、私の考えとまさに一致するものだったのです。無論、人生においてまだ数える程しかスーツに袖を通したことのない二十歳の学生の意見ですから、先生のような方の見識と比べると全く浅薄なものですが、それでも私は自分の考えが認められたような気がして嬉しくてたまらなかったのです。
正しく装うことが相手への礼儀であり、「自分」を表現する手段であるとするならば、日本人男性の大半は無礼で「自分」を持たない人間と言わざるを得ません。
「日本人は外国人相手の交渉事に弱い」などと、半ば決まり文句のようにいわれますが、無礼な人間は交渉相手とはみなされないでしょうし、交渉のテーブルに就 けたところで、「自分」の無い人間に交渉が務まるはずもありません。
一昨日、安倍晋三首相が辞任する意向を表明しましたが、私は彼がサミットのような国際会議の際に各国首脳との記念撮影に臨んでいる映像や写真を見る度に、情けなさのような感情を覚えていました。彼のスーツは私にはオーバーサイズに見えましたし、タイのノットも極めて貧弱で、スーツの型も時代遅れに映りました。彼の横にいるフランスのサルコジ大統領の堂々たる姿が羨ましくも思われました(イタリアのベルルスコーニ前首相も立派な装いだったと聞きます。ブッシュ大統領は先の日米豪の首脳会談でローファーを履いていた?ように見えたのですが)。
安倍首相の服装は一国の総理大臣の装いとしては不適切で、それによって彼の立ち姿や 会見中の様子もどこか頼りなげに思われました。彼は「美しい国」や「主張する外交」といった発言を度々していましたが、自らの装いはその真逆を行くものだったのではないでしょうか。もし彼のスーツがもっとモダンで、タイがディンプルのあるセミウインザーに結ばれていたならば、彼の考えはもっと国民に受け入れられていたのではないかと思います。私たち国民はメディアが伝える断片的な情報しか受け取れないわけですが、彼の装いひとつで同じ断片的な情報であっても伝わり方は変わっていたかもしれません。(長くなりましたので二通目に続けさせていただきます。)
日本のストリートファッションは世界一といわれています。ところが、ストリートで世界の注目を集めたひとたちの多くも、ひとたびビジネスやフォーマルの場にデビューするとまるで世界から相手にされなくなるのではないでしょうか。
最近ではセレクトショップで揃えたスーツと小物で全身を固めたビジネスマンもいるよ うですが、欧米人の着こなしとは何かが違うような気がしてなりません。
今年の春一週間程イギリスに語学ステイをしていました。
ロンドン郊外に滞在していたため、ほぼ毎日ロンドンの中心部に出かけていたのですが、オックスフォードストリートやリージェントストリートを歩くビジネスマンを見るとなぜか(妙な感情を抱いたわけではないのですが)ゾクゾクしてきました。
日本のビジネスマンで、パッと見ただけでこのような感情を抱かせる人にはおそらく今まで会ったことがありません。このあたりが、日本人と欧米人の「違う何か」なのかもしれません。
何が違うのかは私にはまだよくわからないのですが、その違いの原因は「社会に出るまでに正しい服を着たり見たりしたことがあるかどうか」だと思います。
現在の日本社会では、残念ながら、「美しい服」や「面白い服」を着たり見たりする機会は充分過ぎるほどに若者に提供されているにもかかわらず、彼らが「正しい服 」を経験する機会はほとんどないような気がします。
以上を踏まえて先生に伺いたいのですが、先生は例えば御社設立当初と比較して、日本の男性の装いは変化してきたとお考えですか。私が知る日本の装い事情というのはほんのここ2,3年のものに過ぎないのですが、それでも90年代と比較するとセレクトショップ人気もあって、市場には良い品が豊富に供給されるようになり、海外で経験を積んだバイヤーなどから洗練された着こなし提案などの啓蒙活動もなされていると思うのですが。
ここまで二通にわたる文章を読んでいただき、ありがとうございます。拙い表現もあったかと思いますが、お許しください。厚かましいお願いかとは思いますが、私の考えの不十分などについてもご指摘いただけると幸いです。
追伸:10月に一度鎌倉のショップにお邪魔させていただこうと考えています。鎌倉に行くのが初めてなので、街の雰囲気などを想像し、とても楽しみにしています。
年頭に思う
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
会社設立から15年が過ぎた。
創業の折りは、10年続けられる会社を創ろうと考え、一日一日を大切にやってきた様に思う。
それが15年も無事にやって来れた。感謝の気持ちを是非、100人にも増えた従業員の皆様に伝えたい。
供給してくださる仕入先様には、更に飛躍して注文を増やし、その恩に報いたい。
設立の記念日に近い11月に、全社員にその思いを伝えるべく集合してもらった。
更に15年、この会社が存続する為に必要な事は何か。
「魚は頭から腐る」と言われるように、私自身経営者として反省することは無いのか。
従業員の皆様が、何か思いの通じない、あるいは、やりたいことも出来ない、言いたいことも言えない硬直した管理型の会社に変質していないか。
もしそうだとしたら、反省するべきは経営者にある。
皆の前でその思いを語り、そんな会社に絶対にしない事を誓った。
しかしながら会社を支えているのは経営者ではなく、日々お客様に接して一点一点販売している従業員こそが会社を支え、発展の芽を育てているのである。
私達の会社の製品に偽りはない。お客様が、この値段でこんな物が買えるのかと驚き、最後には感謝して下さるような物作りに徹している。 その為に、仕入先様に圧力をかけ、優位な取引を強要しているわけではない。
されど私達小売業は単調な活動の中でも変化と創造が要求され、外的要因であっても売れない日々が続けば自信を失っていく。
失いかける自信を取り戻し、誇りと自信に満ちた活動を支える為に、誇りの持てる商品の供給を心がけ、皆が楽しく力を発揮出来る環境を作らねばならない。
私達経営者も自らに課した厳しい課題をやり遂げることと、従業員の皆が楽しく自信を持って仕事を遂行するためには、守らねばならない自己への課題の克服をお願いした。
六ヶ条の課題を完全に身につけてほしい。
こんな集会であった。
人間の力のすごさを痛感したのは、その日から全社に大きな変化が著れ、暖冬で低迷する業界にあって、驚くべき販売の実績が著れ始めたのでした。
11月に工場に追加注文が出る。こんな前代未聞の現象を、工場の皆様から聞く事が出来たのでした。
人間の思索(脳)は無限大の宇宙よりも大きい。
人間の力はその様に測り知れない。
会社が一体となって力を合わせ、そのエネルギーが内向きでなく外向きに、何の疑いもなく安心して発揮出来る条件が整えば、思いもよらない力が集積し、強大な力と成って爆発する。
どの様に時代が変化するとしても、私達の営みは全て人間がやっていることなのである。
善なることをしていると自覚したときの人間の力は測り知れない。その仕組み作りが経営である。
世間は『偽』で終わった07年、人間の本来の持てる力を、全て否定してしまう様な企業運営の仕組みは一体何なのであろうか。
自社の利益の極大化という目標値が全てに優先する。この仕組みの行くつく処は、負のサイクルの膨張であり、破滅しか待っていないのである。
私達の業界には、まだまだ表に著れていない多くの『偽』が内在しているのではないだろうか。