Tags : 2011
私のやさしい哲学【1】
2011年11月8日 貞末良雄のファッションコラム
私が高校一年、広島国泰寺高校に入学した年から、高等学校教育から哲学科目が消えた。
同校の三年先輩の長兄は、「この哲学の時間さえ無ければ、高校生活は楽しかったのに…」が口ぐせであった。
私は入学した時に、よかったと正直思ってしまった。
哲学は真理を求め、考える習慣を身につける、唯一無二の方法であったかも知れない。
今日本では、人々は考える必要がないほどテレビでは知識人が、それなりの論をまくし立てる。
聴く人々は、自分に都合のよい論理を受け売りする。
あるいはインターネットで簡単に知識が手に入る。
テレビで論陣を張る人の中には、かなりあやしい人も居る。
自分に確たる信念や論理を持っていないと、いつの間にか、自分の意見は他人の受け売りになってしまっている。
その事に気付けばまだよいが、全くテレビの大先生と同じ境地に達している人は始末に負えない。
知識を身につけ、考え、論議して、行動して新しい知を創り出した、そんな過去の習慣は、もう無くなったのだろうか。
哲学とは全体を貫く一本線のようなものであるとすると、人それぞれに、その一本の線は違ってよいと言える。
一本の線、不動の線は、世の中の真理を思索し、自分の信念や生き方を求め、生を受けた人間として、自分自身を価値あるものへと高めていく過程で形成される。
このように哲学することによって、絶対的真実が発見されるとは限らないが、この道を求め考え続け、人と人と議論を重ねることで、人は成長、進化することが出来る。
自分の周りに起こる、総べての事象に何故と問い続けることである。
その事によって人は、今の位置に留まることを善しとしない、生活習慣が生まれる。
今は二度と帰って来ないのである。
したがって、過去は未来への勉強材料であるが、それは決して、未来への万能処方箋ではないのである。
今の成功は未来に何の役にも立たないかもしれないと考えると、経営破たんを易々と招くような事にはならないかもしれない。
経営のトップが、正義とは何か、経営の責任とは何か、自らに問い続けていたら、トップの独善に陥いることも昨今新聞紙上をにぎわす愚かな自己保身や組織優先の判断もしないのではないのだろうか。
トップは何も偉いわけでも、万能の神でもない。
ただ責任の重さを快いと受け入れる馬鹿力がいるものではないか。
一方、米国の高校教育に於いても、日本と同時期に哲学科目が消えたと聞いている。
日米ともに物を考えない国へと転落して行ったという学者もいた。
まだ米国は、100種類以上の多民族国家であるから、それぞれの文化の違いを容認、吸収していく為に、人々は思考し、論議容認してきたに違いない。
そこに未だ思考回路が生き残っている。
一方、我国、日本は、ほぼ単一民族であるが故に、双方が無言の理解の範疇にあり、全く価値観の違う議論は存在しない為、考えなくても判っているから思考凝固が蔓延したのではないか。
さらに悪いことに、スマートフォン、ipadなどの他人との言語によるコミュニケーションも不用になってしまう危険性を孕むことになり、人間力の退化が始まろうとしている。
これらの事がどれだけ恐ろしい未来を招いてしまうのか。
議論しても、はじまらないとすれば、自ら生き延びる為にも、自分自身に新たなレッスンを課することも考えなければならない。
成りたい自分に成る【2】
2011年6月9日 貞末良雄のファッションコラム
マズローの心理学を読んだ。
人間は欲求に支配された動物であり、欲望は善でもなければ悪でもない。欲望を心(脳)がそれを制御する、唯一の動物が人間であると論じている。
欲望は、生理的欲求から安全欲求、差別欲求、優越欲求、最終的に自己実現の欲求となる。
人間は一つの欲望が充足されると、次のさらに高い欲求に向かう。
マーケティングで言う、この自己実現のマーケットに対応することは大変難しい。
自己実現は個人個人がそれぞれ固有のものであり、それまでの欲望は、スパイラル階段を駆け上がるように、方向はいつも一定であり、その欲求を捉える事はさほど難しくない。
成熟社会に到達した生活者がそれぞれ自己実現を模索するとなると捉え処がない。
人類が初めて経験するマーケット、顧客である。
顧客像を捉えるとき、自分の想定する人々又は、そうあって欲しい人々をマーケット
として考えなければ、商品創作は不可能となる。
誰の為に、何の為に、が問われる。
人格形成上の自己実現とは、その人に自己矛盾が極小化することを言っている。
物心つく頃から人は皆、同様にもう一人の自分と暮らすことになる。もう一人の自分は、常に冷静に自分を眺めていて、志した方向に努力しない自分をいつも叱咤する。彼を騙したり、裏切ったりすることは出来ない。何故ならば、彼は自分であるからだ。
もう一人の自分と和解する、誉めてもらえる。それには、自分でも信じられない位、努力し我慢し汗をかき、己に鞭を打ち、くたくたに疲れて眠りにつく時、
「お前良くやったな~」
そのように繰り返し繰り返し、自分を誉める事が出来た時に、少し自己矛盾の幅が狭まって来るように感じるものだ。
もう一人の自分が消えた時、自己実現の初期を迎えたと言える。
時々、もう一人の自分を呼び出すことも一趣だ。
マズローが言う自己実現の記述を少し紹介すると
彼は自己矛盾の程度が低く、自己との敵対関係にない、彼の人格は統合されている。
彼は自分自身への健康な敬意、つまり自分は有能かつ適任であるという知識、体験に基づいた敬意を持っている。
彼は自尊心に依存しなくても、他人からは当然の敬意を受けることも多い。
彼は不当な名声や悪評を求めもしなければ評価もしない。
彼は自分をコントロールしているという感情の力を有している。
彼は自分自身の運命をコントロール出来る。
彼は自分を恐れたり、恥じたり、自分の失敗にくじけたりしない。
それは彼が完璧だからでなく、彼はまた失敗するが、失敗を克服するからである。
私はこのマズローの言葉をいつも考え、
私の今は、果してこの言葉通りであるか、
課題は尽きない。
成りたい自分に成る【1】
2011年5月10日 貞末良雄のファッションコラム
小学生の頃、毎日チャンバラごっこして遊んでいた。
漫画に出て来る忍者、猿飛佐助を手もなく負かしてしまう、師匠の老人、戸沢白雲斎。私も老人に成ったらこんな人に成りたいと思ったものでした。
広島の中学校に入り、本屋で見つけた吉川英治の宮本武蔵。
チャンバラの達人で、人生負けた事がない憧れの剣人である。
初刊の一巻を読み、第二巻が待ち遠しい。
武蔵は花田橋でお通を残して去る。「ゆるしてたもれ」で一巻が終わった。
とても高価な本で、小遣いを貯めて買った。美しい装丁で頁を開く、その香りの気高さが忘れられない。
宮本武蔵が剣の技を極める話ではなく、人間として完成して行く過程での
悩み、苦しみ、決断、総べて自分の行動の中で体得して行く物語りであった。
修練し、自己実現して行くのである。
人生はこの様に歩むものなのか、生涯自己練磨なのだ。
中学生の私には強烈な衝撃であった。
年老いて、あの戸沢白雲斎の様に全てを超越した仙人のような人に成りたい。悟りを開くのだ。中学生の私はその様な夢を描いたものでした。
その後、私自身は真の商人に成ろう、商人の活動を道と考え、その道程を辿って自己を完結させる。道を極めるが私の日常に成っている。
商いとは、人々の欲望を財とサービスで充足させる、又は人々の潜在している不満を解消することが基本であるから、人々の欲望に関して洞察する為には自分自身が大顧客たるべく、消費者であることが重要で、頭で考えるよりは浪費家と言われるくらいの消費をする。
その体感から欲望の変化推移を汲み取るのである。
成熟社会がやっと来たと言われたバブル崩壊の1992年頃から、衣食住足りて、消費者は自分が望む生活スタイルを実現するための消費が始まった。
必要なものを見極める見識を有し、
自己実現の生活空間を求め、
必要なものを納得して購入する。
こんなマーケットが始まったと考えるべきである。
成りたい自分、即ち自己実現のマーケットに対応するビジネスモデルが市場から要求されたのである。必要なものを納得して購入する。納得価格を実現する企業構造改革への挑戦が必要だったのである。
あれから20年経った。
自己改革のチャンスは何度もあったが、少し景気が良くなると、従来体質にドップリ漬かり、苦しい体質改善を先送りにする”集団の無感覚”は心地良いのだ。
流通業では大手小売業の売上減少が止まらない。過去覇者であったが故に、自己否定がむつかしい。私の経営する会社もそうであるように、サービスと財で以って商いをする。そのサービスと財は永遠ではない。
常に陳腐化の歴史を私達は知っている筈だ。
故にたゆまぬ自己否定と進化を自らの経営課題として忘れてはならないのである。
私が社会人になった時
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
東京オリンピックの前の年に卒業した。
1963年だ。
千葉工業大学という名も知られていない小さなカレッジである。
応用科学に興味があったが、私の親友が広島大学の電気科に入ったので、思わず私も電気科志望欄に○印をつけた。
かくして、望んでもいなかった電気の勉強をする事に成ったが、目に見えない電気はどうしても好きになれなかった。
やがて卒業。
取れない単位、卒業できない夢に、卒業後何年うなされたか数えきれない。
そんなわけだから、大不況の当時就職試験は何度も失敗した。
私を採用しなければ、将来この会社は後悔するぞという、理由もない自負心はあったが、それは何の役にも立たなかった。
ようやく、卒論で勉強した「高速道路に於ける照明が運転手に与える輝度による障害防止」というテーマであるが、ゼミの先生に与えられた米国の文献を翻訳したにすぎなかったが、なんとオリンピックが始まり、首都高速道路の建設もあって重要な課題であった。そして照明機材の設計、照明ランプの設計、製造の会社にかろうじて入社できた。
研究室に配属され、特許広報の整理や、設計図の作成の下働きをしていたのだか、ほとんど役立たずであったと考えられる。
工場に行くとものすごい熱気の中で、皆汗を流し働いている。物がどんどん創られている。
すごいクラフトマンの集団である。
それでも何故か私の給与は同年代の人よりは高かった、大学卒という理由だけで。
やがて不況がさらに深刻となり、工場は操業短縮に追い込まれた。給与の30%カットである。
私は研究室員として、従来通りの勤務である。納得がいかなかった。
そこで敢えて工場勤務を志願した。「飛んで火に入る夏の虫」であるが、私よりはるかに優秀な人達が、学卒でないが故にと思うと、私の青い正義感がどうしても今の自分を許すことが出来なかった。
工場勤務イコール給与30%ダウンである。清々しい気持ちに浮かれている間もなく、経済的に困窮に喘ぐことになった。
日々何とか食べるだけで、休みの日はアパートの庭にむしろを敷いて、冷蔵庫もない部屋で融けたマーガリンを体に塗って日光浴して、翌日は湘南で遊んできたと見栄を張っていた。
工場での仕事は何を教わっても楽しく、新しい発見であった。
炉の温度を測るにしても、物の長さを測るにしても、測る道具に絶対正しいという物がなく、何%の誤差の中で物が創られていく。
学校で得た、僅かばかりの知識など全く役に立たないばかりか、知識それ自体は何も創り出さないのである。
工場の技能者は、修練によって毎日毎日新しい創造物を創り出しているのである。
大学で得た僅かな知識で、これからの世の中を渡ってくのは無謀すぎる。私には科学者に成れるような才能はない。
私にもしあるとすれば、私の体に潜むものを信じて、裸になって人間力を創りあげることだ。
私には幸いにして、商人としての血が流れている筈だ。
緩んだ精神と肉体を鍛え直す。
朝6時から夜12時まで働く、番頭さんと丁稚さんの世界に飛び込もう。会社を辞め、かくして、科学者の夢を捨て商人の世界へ。商人の道を歩み、自己実現を計る。この道をまっしぐらに突き進む、第二の人生をスタートさせた。
行動を伴わない知識は、何の役にも立たない。
行動によって得る知覚が、変化を受け入れ革新を生む。勉強して評論するより行動することによって体感し知覚することは、その人固有のものであり、深い知の蓄積となる。
知識は脳への知の集積・備蓄であるが、体感し知覚することは五感を総動員させることであり、人間力となりやがて六感を誘発する。人間の能力とは、どんな状況に於いても、生き残る能力を有することであるから、知識を超える変化が生じた時に知識は役に立たない。行動で体感し、知覚を繰り返していると、本能的な人間力が芽生えてくるのではないだろうか。
私達の体の奥底にはこの本能的能力が備わっていて、それを引き出す訓練を怠らないことだ。
東京電力には、危機を体感した人が居なかったのだろう。現実は空想を超える、知識を超える状況になると、体が動かない。テレビの画面からしか窺えないが、トップマネジメントから人間力の様なオーラは感じられなかった。
知識人ではなく、普通の人の懸命な努力で、やがて日本を復興させるだろう、いつの世も同じように。
私が知っている中国
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
ハルピンに行ったのは、1987年約25年も前になる。
その時ハルピンの空気のきれいな事、食べた食物も自然のままであった。
東京の空と違う青い空、なんと素晴らしいと思った事か。
2009年の春ハルピンから仕入れ先の一行が東京にやってきた。
東京の感想は?と聞くと、何と空気がきれいな事、空の青々としている事と、感激していた。
四半世紀の間に環境は全く逆転していた。
当時ビル一つもなかったハルピンは、高層ビルが立ち並び、近代化にまっしぐらだ。
いたる処建設中で、土地が掘り返され、土埃が空を覆っている。
暖房とアパートと少しばかりの生活の豊かさの代償は、環境破壊だったのだろうか?
北京空港から市内まで、細くて長い車道が延々と続いていた。
いったいどこまで、この真っ直ぐな道は続いているのだろうか、畑の中の一本道だ、さすがに広い国だ。
車などはまれに見るほどで、渋滞などは無縁、今は市中心から環状8号線まであり、8号線の円周は『東京~浜松』に相当すると聞いた。
呆れるほどスケールが違う。
平日でも環状6号線までは、いつも大渋滞で、7号~8号線はかろうじて車で走ることができる。
この20年間の中国の近代化はすさまじく、私は年に十数回中国にいくが、一度も青い空を拝んだことがない。
上海に住む友人は、青空は年に2度ぐらいかな…なんて言っている。
中国人と平均寿命の話をする。
中国では60歳を過ぎた人は、完全に引退して、ただの老人になる。
寿命は日本人より15年ぐらい短い。
それは仕方がないと彼らは言う。
きれいな水がない。
食物も汚染されている。
そんな生活しか出来ない。
寿命が短いのは当たり前だ。日本に行った事のある人達は、口々に日本はきれいだ、空が青い。
食べ物は何を食べても安心出来るし、うどん、ラーメン、寿司、何でも美味しい。
人々は礼儀正しく、サービスは完ぺきだ。
自分達に出来ないサービスに感動する。
電化製品も「メイド・イン・ジャパン」は、丈夫で長持ちする。
中国製は駄目だ。
でも、日本に来て「メイド・イン・ジャパン」が少ないのは淋しい、残念だ。
捜すのに苦労する。
大きな声では言わないが、彼らは日本を尊敬し、大好きなのだ。
あの漢方薬ですら信じていない。
日本に来たら薬を大量に購入する。
お米もいくら高くても買う。
ついでに炊飯器も変圧器も購入する。
日本の変圧器は小ぶりで、中国のものは炊飯器並みに大きい。
日本に住んでいて、ツアーで海外旅行しても、その国の事は判らないから、日本人は自分たちのすごさを知らない。
若い人たちの中には、何も考えずに疑問を持たなくても、先輩の築いてくれた日本が、どんなに尊敬されているか、凄いか、全く感知していない。
無形の財産をみすみす失いかけているのだ。
1974年に一緒にハワイへ語学研修した友人が、上海に住んでいる。
彼はコンピューターシステム設計会社で、進出日本企業の社長をやっている。
彼も10年位上海に住んで、ようやく注文が取れるようになったが、途中帰国を命じられる。
彼の居ない上海では、注文が取れなくなった。
2年後に再赴任して、バリバリと受注を取り始めた。
彼の人柄と懐の深さが中国人に信頼されたのだ。
人脈を築かなければ仕事は出来ない。
働いている会社のネームヴァリユーよりも個人的魅力、人間力が評価される。
17年目になるが、彼はもう中国人だ。
彼曰く、日本のルール、考え方、保守的な行動は通用しない。
決断とリスクテークがなければ、軽視されても仕方ない。
中国では何でも在りなのだ。
日本人の枠の中で考えたら何も出来ない。
13億も人が居るのだから、我先にと、早い者勝ちも理解できる。
常にトップがセールスする、決定権のある人が最前線で決断する。
序列はことの外、重んじるようである。
日本流で担当者が案件を持ち帰って決定する方式は、彼らは交渉時間の無駄と考えている。
トップが出てくれば、トップが対応する。
これが流儀だ。
担当レベルであれば、担当レベルが対応する。
何事も、何時までも決まらない。
日本人との商談は後回しにされる。
私の友人は10年前に現地の女性と再婚した。
30歳も年下だ。
子供が何故か二人もいる。
合法的に二人いるのである、9歳と7歳だ。
7歳の男の子は、優秀で飛び級でお姉さんと同級生になった。
奥様は60人しかいない寒村から山を下りて、南京で苦学して日本人ツアーガイドをして彼と知り合った。
19歳の時である。
最近その子供たちが冷蔵庫に買っておいた日本製の牛乳をよく飲む。
中国製には口もつけない。
値段も4倍ぐらい高いので、透明なビンに入れ替えても、日本製か判るのかそれしか飲まない。
大人には味の区別がつかないが、子供たちは判っているらしい。
いつの間にか日本製しか口にしなくなってしまった。
久光百貨店で購入するが、経済は大変だ。
奥さんもシャンプー、薬、ビール、全て日本製しか買わなくなった。
お土産は、シャンプーと風邪薬とお米が欲しい。
生命に関わるものだ。
値段はいくら高くても購入する。
それが今の中国だと言う。
何故日本は早く自由貿易を選んで、13億のマーケットに日本製品、農産物を売り込んで来ないのか?
彼は憤懣やる方ない様子で、会う度に内向きの日本人を嘆いている。
意思決定出来る人間が、もっと積極的に他文化を学び、現場から得る情報で決断しないのか。
地位の上の人ほど怠け者だと言っている。
1945年、第二次世界大戦で全てを失った日本人は、再び日本の復活を信じ、外向きに外向きに発想して、日本を再び繁栄に導いた。
どん底から這い上がった大和魂を忘れてはならない。
世界のパラダイムが大きく次元を変えようとしている今こそ、一人一人の強い民族意識が未来を切り開く鍵ではないだろうか?
親切
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
このテーマは、私の生涯を通して考え続けているテーマである。
それは私が小学校4年生の頃の事であった。今にも雨が降りそうな空模様であった。
学校から帰る途中の道に乞食のオジさんが坐って、物乞いをしていた。
当時は、第2次大戦で負傷した帰国兵が包帯を巻いて、痛々しい姿で街角で物乞いをする姿をよく見かけたものであった。
そんな理由で、物乞いするオジさんは特別にめずらしいものでなかったが、私が通り掛りに見かけたオジさんは何故か弱々しくうつむいていて気にかかった。
家に帰るとやがて大粒の雨が降り始めた。
私はうすら寒くなった空を見上げ、あのオジさんはどうしているのだろうか、冷たい雨に濡れて困っているのではないか、私は大きな番傘を持って、そのオジさんの処に戻って行った。
予想通り、そのオジさんは雨に打たれさらに弱々しく、坐っていた。
とても可哀相に思い、思わずオジさんに傘を差しかけて、せめて雨に濡れるのを防いであげた。
雨は何時までも止まない。
私は、その場から去ることも出来ない。
オジさんは何も言わないで、今までと同じ姿勢で坐っている。
私の方には1度も振り向いてもいない。
それでも、オジさんは雨に濡れないで坐っている事が出来る。
幼な心に良かったなあと思う。雨は止む気配もない。
そのままのポーズで、2時間も経っただろうか。やがて辺りが薄暗く夕方になっていた。
私が家に居ないことを母が心配して、私を捜しにやって来た。「良雄、晩ご飯だよ。帰りましょう。」
私は母に、「でも…帰れない。」
母は私に少しきつい口調で「帰りましょう。」
渋々、母と一緒に帰る私の不満そうな顔を見ながら母は、「良雄、お前は親切でやさしい子だね。お母さんは、きれいなお前の心は判っているよ。しかし、良雄、考えてごらんなさい。あなたが傘を差して助けてあげている間、あのオジさんには誰もお恵みをあげなかったでしょ?」
その通りだ、と私は思った。
「お前のやさしさは本当に素晴らしい事だけれども、そのやさしさが、あのオジさんから晩ご飯を奪ってしまったとしたらどうなんだろうね?やさしいということは、むつかしいものなのよ!」と母は言った。
幼い私の心がはり裂けるように、理性と感情がぶつかり合っていた。
私は何の報いを求めたわけではない。それならオジさんは私に帰れと叱ったのではないか。
オジさんは何も言わなかったが、とげとげしい表情もしなかった。
2人の間には暖かい空気が漂っていた様にも思えた。
本当にあのオジさんを何とかしてあげたかった。
そして傘を持って、オジさんが濡れるのを防いだ。
しかし、その為にあのオジさんは、晩ご飯にありつけなかったのだ。
幼い私は、本当の親切とは何なのか判らないまま、その宿題が私の長いテーマになってしまった。
親切が相手を不幸に追い込む事がある。
真の親切は全体を見透かす力を持って、相手にも自分にも為に成ると信じた事をやり遂げる。
本当の親切とは叙情的にならず、それを相手が快しとしない場合でも、結果が良い方に向かうと信じて、勇気を持ってやっていく。
ビジネスの世界ではその様に割切るべきとやって来た様に思うが、果たしてそれが正しかったのであろうか。
親切とは何か、WEBで調べてみても、辞典を読んでもみても、気の効いた解は見当たらない。
ラ・ロシュフコーの言葉にこんな言葉がある。
『本当の親切ほどまれなものはない。人に対して親切なつもりでいる人は、通常ただただ人を喜ばせようとする心か、さもなければ弱い心しか持っていない人だ。』
これも大人の考える世界だ。10才の子供の世界ではない。
さて、皆様はどのように考えますか?
カンブリア宮殿秘話【最終話】
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
暗い楽屋裏を案内され(何と多くのスタッフが下働きしているのだろう)例の階段へ。
途中、製作担当者から、「私が合図したら階段を登って下さい」
階段下は、すでにモニター撮影されている。
衿を正して、気合いを入れながら、目は階段ではなく、横目で合図を待つ。
どうも不自然なポーズだ。
登場への気分の集中が出来ない…
やがてとは言っても一瞬であるが、合図の手が挙がる。
よし行くぞ!
モニターに映っている、私の表情を観て、私の応援団の皆様は、私がすごく緊張していると思ったらしい。
“会長が上がってしまって、失敗したらどうしよう”等々、余計な心配をしていた様だ。
気合いを入れて、覚悟を決めているから、皆が思っていたよりは、上がっていない。
ぶっつけ本番への戦闘開始だ。
どこからでも来いの心境である。
段差の大きな階段で、登り難い。私の足の長さは計算に入っていない様だ(当り前だが)。
壇上に上がると既に村上さん、小池さんが出迎えて下さる。テレビで見たシーンだ。
椅子に座わる。あまり座り心地がよくない。
見た目よりは質素な作りで、大きくて、どう座ってよいか。
座った時に、どんなポーズが良いのか。
一番困ったのは、手の位置である。腰掛にも置けない。
村上さんの座り方を模似する。何しろ2時間の収録だから、長期戦の座り方が必要だ。
落ち着くと、心配そうな応援団が左下に見える。私より緊張している様だ。
いつもの視聴者の姿が見えない。
5台のライトが照している。
まぶしいので、ライトは見ない様に心掛ける。
スタンバイの前に、スタイリストが服装のチェックをする。
私のネクタイのセンターディンプル(窪みをつける)をプレーンに直そうとする。
メンズウェアは、少なくとも私はプロだ。スタイリストの指示には従えない。
応援団は固唾を呑んで凝視したそうだ。
“あっ!まずい”
直されたタイの結びを元に戻す。
くだんのスタイリストは村上龍さんに近づく。
私が直しましょうか、と声を掛けるが、従う様子もない。
この番組では、村上龍さんのタイの結び目がいつも気になっていたので(センターディンプルがない)、思わず御節介をやきたくなる。
いよいよ撮影開始。
見えるのは正面のライト、左下隅に陣取っている応援団。
右手に村上さん、小池さん。
カメラに向いて喋るのは当り前だが、質問される右手の両名の方を見逸すわけにはいかない。
カメラは私にとって、テレビを観て下さる方々であるから、その人達に語りかけることが重要で、この番組は、私と村上さん、小池さんの座談会ではない。
考えてみれば、会社のコマーシャルを、テレビで放映する費用は、天文学的な金額だ。
54分間も放映される。コマーシャルの意図は無いにしても、それなりに会社の認知は高まる。私の言葉、ワンフレーズは何百万か??
この場合、沈黙は金どころではない。
一言金の如しである。
村上さんの表情が柔い。シャツ好きだからかな。
質問は流石である。多忙を極めている売れっ子タレントである。
時間が無くて、小さなシャツ屋のオヤジとの対談に、準備の時間はない筈だ。
数々の質問、どうしてこんなに、私達の会社を、シャツを、流通の事を知っているのだろうか?
私と村上さんのやり取りを、熱心に耳を傾ける小池栄子さん。
その表情は、テレビには映らないが、聡明そのものだ。この人は頭の良い人だと思う。
それ以上に、テレビで観るよりもチャーミングである。
グラマー女優さんと聴いていたが、とんでもない。
私の話を真剣に聴いて、うなずいて下さる。
村上さんは、何を聴いても驚かないポーカーフェース然とした処もあるが、小池さんの態度に勇気づけられ、思わず饒舌に、スラスラと語れる。
村上、小池のコンビの謎が解ける。
あっと言う間に2時間も終了か・・・
「ところで貞末さん。最近のリクルート…入社試験を控えた方々にアドバイスを」、と村上龍さん。
全く忘れていた、スタジオの視聴者の方々。
私の位置からは、左傾め後方で完全に視界に入らない位置に座っている。
予期せぬ質問。後ろを振り返って、初めてみるリクルーターの方々。
この質問は、とまどってしまう。
一生懸命、私の答えを待っている方々に、何かを言ってさし上げなくては…
このシーンだけは、私が何を言ったか憶えていない。心配だ…
最後に小池さん。
「どの方にも同じ質問をしていますが、あなたは、何の為に誰の為に仕事していますか?」
(番組では割愛されてしまったが)
私が「日本と、日本人の為に」と応えた時に、小池さんの目頭にうっすら涙が浮かんだのです。
この人は日本人なのだ。日本を愛している!
外見の美しさより更に内面の美しい人だ。
思わず収録中である事も忘れ、感動してしまう。
私も泪ぐみそうで困ってしまった。
放映後8カ月も経って、秘話といってもすこし間延びしましたね。申し訳ありません。
12月14日 放映を観る。翌日村上さんからメール戴く。「良い番組でしたね」 8月中から撮影が始まり、スタジオ収録11月4日、それからも駄目押しの取材、撮影。
100時間以上にも及んだと思う。
それを50分に編集。夜昼問わず、テレビ局のスタッフの働き振り、熱意と体力に心から敬意を表したいと思う。私ではなく番組はこの人達の汗と涙の結晶なのだ。有難う。
カンブリア宮殿秘話【2】
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
どうして、こんな羽目に成ったのだろうか。
走馬灯のようにこれまでの事が思い浮ぶ。
あれだけ嫌だと思っていたのに、とうとうここまで来てしまった。
出ると決ったけど何時放映されるか判らない。
報道番組と繰り返し説明されているので、どの様な番組になるのか見当もつかない。
物語りではなく、実際の姿を正確に忠実に報道するということだ。
会社のオフィスにも新人研修会にも前触れと同時にカメラマンがやって来る。
カメラが回っている。緊張、意識する。
やがて30分もするとカメラマンの姿が見えなくなる。もう帰っちゃったのかなと…。
全く意識からカメラが外れる。どうもここからが彼らの本番なのだろう。
いつのまにか自然にいつもの通りに仕事が出来る。
この番組の事は知っていると思っていたが、観た事があると思った番組はどうもNHKのようだ。似た様な番組なのだろう。
心配した妻タミ子は、カンブリア宮殿の収録本を2冊購入して来る。
「少しは読んで勉強した方が良いわよ!」と。
第一巻、トヨタの張社長から始まっている。
こんなに偉い人と比較されてはたまらない。困ってしまう。
読んで行くと特殊な技術やすごい秘話があるわけでもない。
皆、当たり前の事を言っている。”普通の事がやれる”それが凄いのかな。
普通の事なら私も何とかなるかも・・・と少し安心する。
番組を仔細に観る。
小池栄子さんは、テキパキと冷たい印象だ。
村上龍さんは、髪の毛が多いガッチリした人だな。凄く人気のある作家さんだそうだ。
早速、村上さんの処女作「限りなく透明に近いブルー」を読んでみる。24才の時の作品だ。
すごい物語で体験しなければ書けない・・・描写が凄すぎて頭がくらくらする。
半分読んでダウンする。私の年齢、体力ではこれ以上進めない。恐ろしい才能の人だ。
軽い読物、エッセイ集をみつけた。
村上さんがシャツを買い漁るエッセイを見つけ嬉しくなって読んだ。どうもシャツオタクらしいな。
それにしてもあんなに高価なシャツを何十枚も購う財力にもオタク振りにも驚いてしまう。
やはり普通の人ではない。
シャツの話なら少し自信がある。
番組を観ていると村上さんの眉間の皺が気になる。
頻繁に皺を寄せる時もある。どうも気に入らない時のシグナルのようだ。
気難しい人か?少々短気な人かもしれない?。
この番組は対談がメインに構成されている。収録中にこの眉間に皺が寄らなかったら成功だな・・・。
しかし、小池さんの突拍子もない突っ込みは要注意だ。突然やってくる恐れがある。
頭の中で仮想問答が始まる。将棋の先を読むより難しい。
一般の人も来て観覧している中で2時間もスタジオで対談する。
間違いは許されない。失言しても「ごめんなさい、やり直します」とは言えない。
これは一種の戦だ。考えねばならない。
「村上龍」とは何者だろう。
どうして小池さんとのコンビなのだろうか。番組の意図するものは何だのだろうか。
こうなったら会社のPRを秘かに狙い、社員の期待に応えたい。
そんなに上手く行くわけはないか・・・。
視聴者は、ビジネスマンが中心かもしれない。
家に帰り風呂を浴びてビールでも飲みながら・・・大半の人がこんな状況だろうな。
すこし頭がリラックスしている状態だろうから、難しい話や早口にしゃべる事も禁物だろう。
何万、何十万の目が観察している。どんな小さな嘘も見抜かれるだろう。
顔の表情が重要だ。今更顔は変えられないしこうなったら何も考えずに自然体でいくしかない。
今までの私が裸にされる、それがテレビかもしれない。
聞くところによると、村上さんが4900円の弊社のシャツを予想外に気に入って何枚かネットで購入して下さっているらしい。
弊社のシャツを正しく評価してくれる、本物のシャツオタクに違いない。
これは幸先きが良いぞ。眉間の皺は寄らないかも・・・。
組織と組織図
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
私は、長いサラリーマン生活で組織の壁に何度ぶち当たり、それを超えて仕事が出来ないという痛い経験を重ねたものでした。
『組織さえなければ!』と、何度思ったことか。
あの上役がいるために、私の意思がTOPに届かない。
組織って一体何なのだろうか?何のために作られたのだろうか?
課長って何のために、誰のために居るのか?長く疑問に思ったものでした。
高度情報化社会が到来している。グーグルの検索で数億にもなる知識の収集を一瞬の内に出来る時代である。
自社の情報伝達は、これに負けないスピードで成されているだろうか?
組織は、情報を円滑に伝える方法の一つであるから、こんな時代になると、組織はなるべく平らな方が良いのではないか。情報は言葉だけではないのだから、働く人の息使いが聞こえる仕切りのない部屋が一番良いのかもしれない。
情報は、変化を伝えるものであるから、必ずしも言葉やレポートで伝えるだけではない。
変化は感知したり、知覚するもので、五感を通してなされる、人間には第六感も動員される。そして、その対応を行動に移さなければ意味がない。
従って、これらの知覚は集団全体に共有されるものでなければならない。
共有されれば、集団固有の財産であり固有の知恵となる。
組織集団は、変化を利用してイノベーション(変革進化)する。
変化は、座っていては感じることは出来ない。誰も教えてくれない。まして、レポート等では手遅れである。
欲望の変化は、対応するビジネスの場合、TOPが知覚しなければ、集団全体の行動指針は発令されない。
私が自分で会社を創った時、(といっても夫婦二人でしたが)やがて会社が大きくなっても、この苦い経験から絶対に組織は作らない。組織の無い会社にしたい。
いつも何かの目的の為に、全員でそれに向かってやっているタスクフォース型、又はプロジェクト型でやりたい考えを貫いてきた。
勉強すると、組織論には、集団が生きるために、必要不可欠な情報を共有する為に最も情報伝達を効率よく有効にするために、作りあげられるべきものであった。蟻の情報交換が参考にされたこともあった。軍隊の様に、双方の戦いは、この情報共有力に勝利の結果が帰したことによって、証明されたように思える。
集団が生き延びるために猿の集団はどうしているだろうか?
攻撃から集団を守るためには、群の中で一番遠目の利く者がその役に就き、高い樹に登り、危険を知らせる。
鼻の良い者は、食べ物や水の在り場所を安易に発見するだろう。
耳の良い者は、目の利かなくなった夜間の敵撃を察知する。
腕力の強いものは、子供を守り敵と戦うであろう。
この様にして、自然に組織だった行動がとられた集団が生き延びることになる。
組織は必要とされる部署に必要とされる能力のある者が、その任を遂行する。
自然の流れとしては、そうなるべきであるが、人間の社会ではこのような当り前と思える自然な組織が作れない。
私が学校を卒業して、就職試験に臨む目標とする会社の組織図を観た時、その立派な組織図。その頂点に君臨する社長様を支える、ひな壇の様な構成。ときには、その図を逆さまにして、TOPが一番下だから、TOPは皆様の下部(僕)の如く表現したりする壮大な組織図を見て、関心し、畏れ、尊敬してしまったりもしたものであった。
多段階ある組織図の会社こそが立派な会社だと思ってしまう。
それぞれのひな壇の頂点に立つ人の誇らしい表情が目に浮かぶ。
こんな巨大な組織の情報の流れは、どうなっているのだろう?
上位下達(上からの指令)
下位上達(下から上に上げる情報報告)
これが、有効でなければ組織体(集団)は生存能力を失う。
大企業病は、当り前のことが機能しなかったり、危険を予知して情報を発してもその情報の重大性を見逃してしまう。何が必要な情報であるか、誰も気にしない。
大会社なのだから、危機が迫ってくるはずはない。誰もがそう思い、油断してしまう。
組織の階段を一歩登る毎に、情報は50%消滅すると言われている。
3段階上がるころには情報は10%となる。
一方、情報と反する「雑音」は50%づつ増加する。
3段階上がると、雑音は90%になる。情報は雑音に消される。
組織の階段はこんな危険を孕んでいる。
TOPに正しい情報が届かず、雑音ばかりになると、TOPはいつの間にか裸の王様となる。
組織は、出来るだけフラットで、垣根の少ないのが良い。
叫んだら聞こえる。皆団子になって働くのが良い。
上役も部下も無い方が良い。
その中で、任の重い人が生まれれば良い。
組織が複雑巨大でなくても、部署間の縄張り争いが発生する。
部署TOPの権力の誇示が始まる。組織にある地位が上がるということは、その人はとりも直さず、集団の生存に関する、大きな責任を有することを意味するのである。集団の生存に大きな役割を持つわけだから、決して、権力を持つのではなく、責任が大きくなるのである。
そのために、汗をかき、身を現場に置き、誰よりも危機感を持ち、注意深く変化に対応しなければならない。身を賭してやるべき仕事である。
往々にして、部門長ともなると、両肘付きの椅子を要求し、深々と腰をかけ、その地位の居心地を楽しむ様になり、自分が権威を発揮出来る範囲に安住する。
身らの都合の良い情報を集める。権威を保つために権限の主張が縄張り争いになる。
意思の疎通を計るため、会議が増え、緊急でも必要でもないことに、多くの時間を費やされる。
自分の職務権力を失いかねないリスクを犯すことが無くなってしまう。
会社の目的が頭から消えてしまう。リスクの無い意思決定は無いのであるから、何もやらない、決められない組織上の長が生まれる。
【組織はあっても組織図は無い方が良い】
小さな会社でも、組織図を作ると、いっぱしの会社になった様に思える。
この組織図が会社を運営してくれるものと、勘違いする。
組織図からは、何も生まれないとは思わないのだ。組織は動いて機能するが、組織図は静止画像である。私達は組織図を観た瞬間から、それに囚われてしまう。固定概念である。
組織の長には、偉い人であると思ってしまう。ただ「偉い人」と思うだけで、実際にはその人がいつも集団のことを考え、集団の生命を守ってくれる代表者であるとは決して思わない。地位が上がった人が、それなりに優秀で、偉い人ではあるが、本人が思っている程、他人は評価していないものである。
地位が上がった人たちの総てが、必ずしも集団の命を支えるに足りる人物とは限らないからだ。実る程こうべをたれる稲穂の様にはいかないのだ。
地位は力が無くても、能力不足でも、その地位に就ける場合が多々あるものだ。
地位は、上から引っ張りあがる。下から押し上げても中々上には上がらない。
上の人のエゴ、学校の先輩、後輩、自分を守ってくれる部下が欲しい等々の要素で昇格が決定する。
集団が生き延びるためには、自然に力のある者が、能力ある者が、その責任を自覚して、その任にあたればよいのである。組織図なんかなくても集団は生き延びることが出来るのである。
この様にして、出来上がった組織こそが必要だと考える。
猿の集団も、蟻の集団も、組織はあるが、彼らは組織図を持っていないのである。
さて、この日本丸集団は、誰が命がけで国家のため、人民のために働き、どの様にして、生き延びるのでしょうか・・・・。
報道も、こんな視点で民の眠りを覚まして欲しいものである。
カンブリア宮殿秘話【1】
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
年に数度しかやらないGOLFの招待を受けた。上手くないので、いやいやながらのGOLFである。
午前中に大雨になってしまった。
スタート延期、やれやれであった。でも折角来たので予報通り午後から、やれるかもしれない。
時間潰しに、コーヒーを、やがてビールになった。
初対面で話題もない、相手は相当に偉い方だ。畏れ畏れ私の昔話しを始めた。
創業するまで勤務した会社5社は、この世から消滅してしまった。
人の能力なんてものは、勉強が出来るに越した事はないが、どんな環境に遭遇しても、生き延びる力を持ち続ける事が、その人の最終の能力かもしれない等々、苦労話しを出来るだけ楽しく、ビールの勢いもあって、会話も盛りあがっていた。
突然その偉い人が携帯電話を取り出し
「何やら、おもろいオッサンがおるでー。貞末さん、今度ゆっくり友人と3人で食事でもしませんか…」
次の食事に伴われたのが、かの有名なカンブリア宮殿のプロデューサーさんであった。
そんなことも知らずに、わいわい大酒飲んで談論風発であった。
単純にこの人達とのお酒は格別であった。
呑気なもので、後で判ったのだが、私は番組出演に耐え得るかテストされていたのであった。
収録は2009年11月3日。
約一年前に、出演打診である。
テレビ嫌いの私でも、この番組の事は知っている。
滅相もない、番組を冒涜するものだ。
私にはそんな中味も、風格もない。
会う度にお断りして、9ヶ月間も過ぎた。
ディレクターさんは昇格して、番組は次の方に移った。
プロデューサーさんがディレクターさんを連れてこられた。だが私とは面識もなく、挨拶だけだけだったので、一件落着、よかったよかったとある種のプレッシャーから解放され、ほっとしたが、それが束の間であった。
それは2009年8月初めの事である。
8月18日新彊綿の仕入れに中国寧波に飛び立つ事に成った。
これで完全開放と思ったが、なんとその日成田には、2人のスタッフが、私の出張に同行すると待ち構えていたのである。
挨拶そこそこに、カメラが回り始めた。
それから、上海―寧波と丸2日間合計10時間もカメラの集中撮影である。
車中、仕入先訪問含めて、8~10時間も、喋っただろうか。
もう覚悟を決めて、テレビ出演するしかない。観念したものでした。
そして11月3日がやって来た。スタジオ収録だ。
予想したが、番組に関する打合せは何もない。
不安であったが、私からは、どうする事も出来ない。
13時4分スタート。
30分前にスタジオ入りして欲しい。
それでも約1時間前にスタジオ入りした。
見学に私の会社のスタッフも大勢集まっている。
ペットボトルのお茶一本。スタジオの控室。殺風景な室で何もない。
椅子とテーブル、外には河が見える。
待つ事30分、ドアがノックされた。
漸く打合せが始まると思ったが、化粧係りのオバさまで、「どうぞ、お化粧いたします」。
これで男前に化粧してもらえると思ったが、「テレビカメラ5台、強いライトが当るので顔に反射止めのパフを致します」。
エー、それで終わりなの?
ポンポンとパフを当ててもらい、OK。
5分で室に戻る。又一人で待つ。
何だか死刑の執行を待っているような心境になって来る。
5分前、村上龍さん、小池栄子さん、ドアノックと同時に入室、やっぱり少しの打合せをするのだ。
小池さん「貞末さん、本日はよろしくお願いします」。
村上さん「これは私の著書です」とサイン入りの3冊の本を戴く。
それでは、と一瞬で退室される。
ポカンである。
4分前、係の人が、それでは収録が始まりますと例の階段に導かれる事になった。
「絞首刑の階段だな」なんて少し緊張する。