貞末良雄のファッションコラム
私が社会人になった時
2011年5月9日 貞末良雄のファッションコラム
東京オリンピックの前の年に卒業した。
1963年だ。
千葉工業大学という名も知られていない小さなカレッジである。
応用科学に興味があったが、私の親友が広島大学の電気科に入ったので、思わず私も電気科志望欄に○印をつけた。
かくして、望んでもいなかった電気の勉強をする事に成ったが、目に見えない電気はどうしても好きになれなかった。
やがて卒業。
取れない単位、卒業できない夢に、卒業後何年うなされたか数えきれない。
そんなわけだから、大不況の当時就職試験は何度も失敗した。
私を採用しなければ、将来この会社は後悔するぞという、理由もない自負心はあったが、それは何の役にも立たなかった。
ようやく、卒論で勉強した「高速道路に於ける照明が運転手に与える輝度による障害防止」というテーマであるが、ゼミの先生に与えられた米国の文献を翻訳したにすぎなかったが、なんとオリンピックが始まり、首都高速道路の建設もあって重要な課題であった。そして照明機材の設計、照明ランプの設計、製造の会社にかろうじて入社できた。
研究室に配属され、特許広報の整理や、設計図の作成の下働きをしていたのだか、ほとんど役立たずであったと考えられる。
工場に行くとものすごい熱気の中で、皆汗を流し働いている。物がどんどん創られている。
すごいクラフトマンの集団である。
それでも何故か私の給与は同年代の人よりは高かった、大学卒という理由だけで。
やがて不況がさらに深刻となり、工場は操業短縮に追い込まれた。給与の30%カットである。
私は研究室員として、従来通りの勤務である。納得がいかなかった。
そこで敢えて工場勤務を志願した。「飛んで火に入る夏の虫」であるが、私よりはるかに優秀な人達が、学卒でないが故にと思うと、私の青い正義感がどうしても今の自分を許すことが出来なかった。
工場勤務イコール給与30%ダウンである。清々しい気持ちに浮かれている間もなく、経済的に困窮に喘ぐことになった。
日々何とか食べるだけで、休みの日はアパートの庭にむしろを敷いて、冷蔵庫もない部屋で融けたマーガリンを体に塗って日光浴して、翌日は湘南で遊んできたと見栄を張っていた。
工場での仕事は何を教わっても楽しく、新しい発見であった。
炉の温度を測るにしても、物の長さを測るにしても、測る道具に絶対正しいという物がなく、何%の誤差の中で物が創られていく。
学校で得た、僅かばかりの知識など全く役に立たないばかりか、知識それ自体は何も創り出さないのである。
工場の技能者は、修練によって毎日毎日新しい創造物を創り出しているのである。
大学で得た僅かな知識で、これからの世の中を渡ってくのは無謀すぎる。私には科学者に成れるような才能はない。
私にもしあるとすれば、私の体に潜むものを信じて、裸になって人間力を創りあげることだ。
私には幸いにして、商人としての血が流れている筈だ。
緩んだ精神と肉体を鍛え直す。
朝6時から夜12時まで働く、番頭さんと丁稚さんの世界に飛び込もう。会社を辞め、かくして、科学者の夢を捨て商人の世界へ。商人の道を歩み、自己実現を計る。この道をまっしぐらに突き進む、第二の人生をスタートさせた。
行動を伴わない知識は、何の役にも立たない。
行動によって得る知覚が、変化を受け入れ革新を生む。勉強して評論するより行動することによって体感し知覚することは、その人固有のものであり、深い知の蓄積となる。
知識は脳への知の集積・備蓄であるが、体感し知覚することは五感を総動員させることであり、人間力となりやがて六感を誘発する。人間の能力とは、どんな状況に於いても、生き残る能力を有することであるから、知識を超える変化が生じた時に知識は役に立たない。行動で体感し、知覚を繰り返していると、本能的な人間力が芽生えてくるのではないだろうか。
私達の体の奥底にはこの本能的能力が備わっていて、それを引き出す訓練を怠らないことだ。
東京電力には、危機を体感した人が居なかったのだろう。現実は空想を超える、知識を超える状況になると、体が動かない。テレビの画面からしか窺えないが、トップマネジメントから人間力の様なオーラは感じられなかった。
知識人ではなく、普通の人の懸命な努力で、やがて日本を復興させるだろう、いつの世も同じように。