貞末良雄のファッションコラム
私のやさしい哲学【1】
2011年11月8日 貞末良雄のファッションコラム
私が高校一年、広島国泰寺高校に入学した年から、高等学校教育から哲学科目が消えた。
同校の三年先輩の長兄は、「この哲学の時間さえ無ければ、高校生活は楽しかったのに…」が口ぐせであった。
私は入学した時に、よかったと正直思ってしまった。
哲学は真理を求め、考える習慣を身につける、唯一無二の方法であったかも知れない。
今日本では、人々は考える必要がないほどテレビでは知識人が、それなりの論をまくし立てる。
聴く人々は、自分に都合のよい論理を受け売りする。
あるいはインターネットで簡単に知識が手に入る。
テレビで論陣を張る人の中には、かなりあやしい人も居る。
自分に確たる信念や論理を持っていないと、いつの間にか、自分の意見は他人の受け売りになってしまっている。
その事に気付けばまだよいが、全くテレビの大先生と同じ境地に達している人は始末に負えない。
知識を身につけ、考え、論議して、行動して新しい知を創り出した、そんな過去の習慣は、もう無くなったのだろうか。
哲学とは全体を貫く一本線のようなものであるとすると、人それぞれに、その一本の線は違ってよいと言える。
一本の線、不動の線は、世の中の真理を思索し、自分の信念や生き方を求め、生を受けた人間として、自分自身を価値あるものへと高めていく過程で形成される。
このように哲学することによって、絶対的真実が発見されるとは限らないが、この道を求め考え続け、人と人と議論を重ねることで、人は成長、進化することが出来る。
自分の周りに起こる、総べての事象に何故と問い続けることである。
その事によって人は、今の位置に留まることを善しとしない、生活習慣が生まれる。
今は二度と帰って来ないのである。
したがって、過去は未来への勉強材料であるが、それは決して、未来への万能処方箋ではないのである。
今の成功は未来に何の役にも立たないかもしれないと考えると、経営破たんを易々と招くような事にはならないかもしれない。
経営のトップが、正義とは何か、経営の責任とは何か、自らに問い続けていたら、トップの独善に陥いることも昨今新聞紙上をにぎわす愚かな自己保身や組織優先の判断もしないのではないのだろうか。
トップは何も偉いわけでも、万能の神でもない。
ただ責任の重さを快いと受け入れる馬鹿力がいるものではないか。
一方、米国の高校教育に於いても、日本と同時期に哲学科目が消えたと聞いている。
日米ともに物を考えない国へと転落して行ったという学者もいた。
まだ米国は、100種類以上の多民族国家であるから、それぞれの文化の違いを容認、吸収していく為に、人々は思考し、論議容認してきたに違いない。
そこに未だ思考回路が生き残っている。
一方、我国、日本は、ほぼ単一民族であるが故に、双方が無言の理解の範疇にあり、全く価値観の違う議論は存在しない為、考えなくても判っているから思考凝固が蔓延したのではないか。
さらに悪いことに、スマートフォン、ipadなどの他人との言語によるコミュニケーションも不用になってしまう危険性を孕むことになり、人間力の退化が始まろうとしている。
これらの事がどれだけ恐ろしい未来を招いてしまうのか。
議論しても、はじまらないとすれば、自ら生き延びる為にも、自分自身に新たなレッスンを課することも考えなければならない。