それは、全く予想を越える出来事だった ―
1980年のニューヨーク・マンハッタンは、地図の至る所が危険地帯として赤く印されていた。語学堪能な大手アパレルの課長さんが、夜の街に出かけて帰らぬ人となった。と報道される、まさかが現実になっていた時代。私は新ブランド提携の交渉に、三菱商事の杉田徹さんと1980年11月、二度目のニューヨークに向かった。
交渉が一段落した日曜日。充分に時間もできた。キャナルストリートで念願のガーバージャックナイフを買い、ついでにチャイナタウンで昼ごはんをと考え、49丁目のレキシントンホテルをひとり出発。日曜日の地下鉄には通勤客がいないので、絶対乗らないで欲しい。と、旅行会社から厳しく注意を喚起されていたが、お金を節約と歩いて行くことに決め、危険地帯を避けながらソーホー方面に向かった。
ユニオンスクエアーは危険地帯であったが、どうしてもそこを通ってキャナルストリートに行かねばならない。そこで、同じ方向へ歩いている数人の白人に同行することにした。
これならば安心と思っていたが、やがて白人たちは一人また一人と道沿いの家に消えて行った。ふと気が付くと、何と私ひとりになっていた、しまった!と思ったがもう遅い。せまいストリートには、日なったぼっこしている黒人のなんと多い事か。舗道は黒人で埋め尽くされている。
覚悟を決めて道路の真ん中をゆっくり歩くことにした。何も起こらなければ良いが・・・と念じながら、道の半ばにさしかかった。案の定、遥か遠く真正面から、2メートルもあろうかと思われる黒人が、私を目がけてゆったりと向かってくる。逃げる事はできない、周りの黒人たちは皆様子を窺がっている。私が目標でない事を祈るしかない。
覚悟を新たにして、とにかく自分の道を進む。すると、目の前に迫った巨人はいきなり私を上から抱え込んだ、来た!そのデカイ事。身動きができない、なすすべもない。
彼は、耳元で「ギンマー、ギンマー」と呻いている。ギブ・ミー・マネーの意味だろうか・・・
ポケットに手を突っ込むと、“銃を取り出す”と思われ反対に撃たれる可能性があると聞かされていたので、お金を取り出す事もできない。
私はただただ、「ノー、ノー」と声を押し殺して答え続けた。
何度も押し問答をしていると、彼の吐く息の臭い事、さらに彼の体が左右ゆっくり揺れている事に気づいた。もしかしたら 麻薬中毒?と、彼の揺れに体を任せその振幅が大きくなったその時、思い切り彼の体を抛り出し、見事に彼を投げ飛ばした。その瞬間、周りの黒人が一斉に立ち上がった・・・危ない!
心臓が張り裂けそうであったが、あわててはいけない。道路に横たわった彼に「カモン」と声をかけ、手を差し伸べて半身を起こしてあげた。
彼はそれ以上襲いかかってこなかった。そうなれば大変だったが、私は何事もなかったように振舞い“柳井音頭”を口ずさみながら漸く、大通りにたどり着いた。助かった・・・命拾いした!
怖くて怖くて脚の震えが止まらない。通りかかったタクシーに飛び乗りホテルに直行した。部屋に戻ればもう安全だ。しかし、それからどれくらい震えていただろうか?やがて震えも収まり冷静になってみると、こんなに恐れ慄いたとこは無い。無残な怖がり方であった。
どうして、こんなに怖がったのだろうか。誰も見てはいないが、恥ずかしいし、情けない。
こんなことで、こんなに怖がる自分。臆病者と認めて生きるのか・・・我ながらみっともないし、許されない・・・この恐怖を克服しなければ、私の今までの誇り、自尊心を失ってしまう。よし、もう一度同じ場所に行こう。同じように初めからあの道を歩いてみよう。これができなければ、私は勇気のない臆病者で終わってしまう。
同じ道までタクシーで向かった。なに食わぬ顔で歩き始めた。何故か危険は感じない。左右を見ると黒人は私を凝視している。私を覚えているようだが、敵意は無いと感じる。手を振って挨拶すると、彼らも手を振って応じてくれる。もう安心だ。ゆっくりストリートを渡り切った。やった!!!ついに自分の恐怖心を克服した、私自身に勝利した瞬間であった。
私には大きなかけであったのだが、後に誰からも、何とバカなことをしたのだ。命がいくらあっても足りないぞ。と揶揄されたのでした。
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