彼は私の住む柳井市柳町に突然現れた。私が小学校4年生の時である。
私は柳町のガキ大将であった。
学校が終わり 仲間たちと、缶蹴り・チャンバラ・鬼ごっこ等、毎日楽しく遊びに明け暮れていた。
勉強など誰もしていない、良き時代である。
彼の名は白川 四壽(ヨンスン)大柄で切れ長な鋭い眼光の持ち主で結構ハンサムであった。
彼は韓国人が集団で住んでいる、地域に家族と共に引っ越して来たのである。
彼らは豚を飼育し、山羊を飼い、鶏を育て、その地域は動物糞尿などの入り混じった独特の臭いのする、集落であった。
我々が簡単に踏み込めない独特の雰囲気を醸し出していた。
彼はそこからやってきたのである。今考えてみると、彼は私たちの仲間になりたかったに違いない。
彼は強引に我々グループに割入ってきた。仕方なしに仲間に入れて遊ぶのであるが、どうしても波長が合わなく、途中で喧嘩になってしまう。当然ボスの私と取っ組み合いになる。
私も喧嘩慣れしていて、自信満々であったが、彼は何時も巧みに私の背中を取り、軽々と私を抱え上げて地面に叩き付ける。
恐ろしい力で、その衝撃は声も出ない悶絶の一歩手前である。
呻いている私を見下し、彼は悠然と引き揚げていく。
何度戦っても絶対に勝てない。
何時もの結果が待っていたが、私は絶対に“参った”と言わない。
勝負は決着していない。でも私には勝つ術がない。そんな日々であった。
5年生になっていた、ある日、私の家からほど遠くない坂道の八百屋の前で、先輩に交わって遊んでいたら、彼ヨンスンが現れ、私に喧嘩を売ってきた。
激しい言葉の応酬の後、彼は一旦引き揚げ、青竹のこん棒を引っ提げてやってきた。
彼は私を殴ると言う、殴れるものならやってみろと、一歩前に出た。
まさか殴る事はあるまい。
得物を使い喧嘩するのはルール違反だ。たかを括っていた。
しかし彼は青竹を振るってきた。頭を一撃された。痛みよりは、まさか?の驚き。
思わず左手を頭にやると、生ぬるい血がべっとり手を濡らしている。
やがて顔面一杯に血が垂れてくる。
彼はその出血の凄さに顔面蒼白になっている。
私は痛みよりは、これで彼に勝ったと思い、このチャンスを逃すものかと、逃げ込んだ彼の家まで追いかけた。
玄関前で「ヨンスン出てこい」と叫ぶ、何事かと両親が顔を出す。
その驚いた様子に私は大声で 「まどえ まどえ」 (元に戻せ 償え 柳井弁である) 何度も連呼した。
あの大きな親爺さんもぶるぶる震えている。ヨンスンを出せ、私は勝ち誇って大声でわめいていた。
異変を聞いた長女の葉子姉さんがやってくる。
「よちゃん、どうしたの?」
「大変だ、直ぐお医者さまに」 と近くの外科医に連れられた。
幸い2針の縫合ですんだが、頭は包帯でぐるぐる巻きだ。
名誉の負傷だ。この姿は迫力満点だ。
家に連れて帰ろうとする姉を遮って、やり残したことがあるからと、再度ヨンスンの家の前に立つ。
「この包帯が見えないのか、 まどえ まどえ」 怖がって誰も外に出てこない。
完全な勝利をものにできた。トドメを刺したのだ。
代償に山羊を戴くことにした。
「山羊を貰っていくぞ」 と大声で、繋いであった山羊を引いて帰る。
山羊がどれだけ彼らにとって貴重であるかは判っていた。
家に山羊は必要ない、帰り道の川の辺から山羊を蹴落とした。
山羊は大丈夫、泳げるし、親爺は直ぐに助けるに違いないから。
その時以来ヨンスンは私たちの目の前から姿を消した。
あれから、何十年経っただろうか。
彼の事は忘れた事はない。40代後半の出来事である。
広島に墓参りに帰省した。
長男の経営する洋品店の入り口前に、七半(ナナハン)と呼ばれる大きなバイク3台が何時も駐車され、困っているという。注意すれば良いではないか?
兄は、「それが難しいんじゃー」
どうせならず者の仕業だろう。困ることは困るのだから。私はすぐさま、大きなバイクを移動させようとした。そのときである、3人の大柄なやくざ風の男たちに囲まれた。
「何をしとるんじゃい」
今にも殴りかからんばかりのその時、突然恰好よい偉丈夫いかにもやくざの兄貴分風の彼は、いきなり3人のやくざ者を平手打ちして、「てめいら、何をしとるんじゃあー」
「お前らが束になって掛かっても勝てる相手じゃない」、と私を見つめ、「よちゃん、久しぶりじゃ、
あんたは強かったのおー」 彼が手を差し出し、握手した。目を見つめあった。
もし今度何かあったら、この俺に連絡してくれ。
奇跡の一瞬であった、懐かしいライバルが救世主として、現れたのだ。
彼も忘れていなかったのだ。
喧嘩に明けくれた、わんぱく時代も無駄ではなかったのだ。
何時も怯まないでいたい。こんな道を歩いてきた。
彼は秘かに私を尊敬していたのかも??嬉しかった。
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