子供の頃、祭は田舎町で一大行事であった。
12年振りに私の住む柳井町に大名行列の当番がやってくる。
町を挙げて準備が始まっていた。(1951年11才 私は小学校五年生だった)
毎年観る行列は、強烈な印象があった。
馬に乗った大名、それに続く太刀持ち(たちもち)、若党の集団。
私は太刀持ちの持っている太刀に憧れていた。
天神祭りに私もあの太刀を持って、町内を練り歩きたい。
塚本和子ちゃんや、桧垣さん(美人)や、友人皆に見てもらいたい。
学校が終わるとすぐに町を仕切る林染料店に行き、林さんに「私に太刀持ちをやらせてほしい」と懇願したが、全く取り合ってもらえない。
家の縁側に腰掛け座り込む。3時間も座り込んだだろうか?やがて夕食の時間になり、食卓に夕食が用意されはじめた。
町一番のお金持ちだけあって、その食事の豪華なことにびっくりする。
これ以上座っていると、夕食にありつきたいと思われてしまうので、諦めて家に帰った。

次の日も、次の日も、同じ様に座り込んだが、全く相手にしてもらえない。
一週間も毎日座り込んだだろうか?ついに林さんが母を訪ねてきた。
林さん曰く
「奥さん、困っているのだよ。あんたの息子が毎日、私の家に座り込んで太刀持ちをやらせろとせがむんじゃ。こう言っては悪いが、太刀持ちをやれるのは、金持ちの身分しかやれないことで、あんたの家ではとても無理。息子を説得してくれんか?若党の役でよいのではないか?」
(若党はその他大勢でこれだけはやりたくない・・・)
母は、戦前裕福であった頃を思い、この屈辱に耐えられなかった。戦争で全てを失っていた。
「林さん、それでは、いか程の寄付をすれば、太刀持ちをやらせてもらえますか?」
母は、嫁入りの着物、指輪、全てを売り払った。
そんな事があったとは、後に判った事であったが、晴れて、私は太刀持ちの大任を得ることになった。
夜8時から新市町にある天神様で参拝の練習である。
毎夜、母の付添いで練習をした。私は得意満面である。
やりたい!やってみせる!執念は実った。
その陰で母の強い愛情に支えられていたのであった。

柳井の天神祭り~思いは通ず~

私達家族9人の生活は、広島で商売をしている父からの毎月の仕送りで賄っていた。
仕送りが遅れたり、途絶えたりと、母の苦労は絶えなかったのである。
やがて父に愛人が出来た。母の哀しい表情は忘れられない。母を助けたい。子供心にそんなことを思っていた。

母は自立する決意をする。
“小さな食堂をやろう!”
広島で小政という評判のラーメン屋に父が服を売って、貸し付けた支払が滞っていた。
その借金のかたに料理を教えてくれたら借金を棒引きするという約束で、コックさんが柳井にやってきた。
家中大騒ぎであった。ラーメン屋は家の玄関を取り壊して新しく食堂にすることになった。
15席くらいの小さな食堂の計画であったが、なんせ一銭のお金もない状態である。
無謀な決断であった。
知人の大工、木村さんは、材料さえあれば、出世払いで作ってあげると約束してくれたが、材木が必要だ。
夏の夜、母は、私に一緒に行ってくれと、2里近くある川の上流の材木屋を訪れることに成った。道すがら、お前は守り神だからと。
材木屋は浴衣姿で上機嫌で迎えてくれたが、母が「お金が無いのですが、必ず支払うので、一時材木を貸してほしい。」とお願いすると、ご主人は「いくらなんでも見も知らぬ方が、突然訪れてきて貸してくれと言われても、それは無理ですよ。」福よかな赤ら顔も困惑の表情であった。
その時、奥様が冷たい麦茶を運んでこられ、話を聞いていたらしく、「お父さん、この山一杯の材木を持っていて、この方にお貸しすることは、何でもないことではないですか?見れば、子供さんを連れてこられ、人をだます様な方には思えないではないですか。貸してあげてください。」
この一言で、無事、小さなラーメン店が開業した。
母曰く「小さなお前がどうしても太刀持ちをしたいとその思いを遂げた。懸命に参拝を練習するお前を見て、母の私がその不幸を悲しんでばかりいてどうなるだろうか?お前に導かれて、私も決意をした。」
母の強い思いが実現した瞬間であった。
その後、やがて大きな料理店となり、母は父を凌ぐ商いを実現した。

思いは実現する。
私の生涯を決定づけた経験であった。